「これでいい」という自己確認の道具になる
電車内の広告にあるような、「この本を読んで人生が変わった」という劇的な経験が起こることはまれだ。自己啓発書(的なもの)を読んだ経験があるほど、劇的な経験はより起こりにくくなると考えられる。というのは、それまで読んだものとの比較から、「やっぱりそうか」という反応に落とし込まれやすくなるためである。
このような自己啓発書の読まれ方を考慮すれば、カーネギーの著作は「普通」だからこそその役割を大いに果たすのだと考える筋道ができる。つまり、品のよい書きぶりで、現代にも通じるような普遍的エピソードを通して、誰もがうなずくような「いいこと」が書いてある。読者からすれば、やっぱりこれでいいんだ、やっぱりこれが重要なんだ、これなら私にもできそうだ、といった読み方がしやすい。
「普通」であればあるほど、読者はそれぞれの自己確認の動機にしたがって、それぞれの「いいこと」を発見しながら読むことができるのである。これは松下幸之助の著作などにもいえることかもしれない。
だが、「いいこと」を書けば誰でもベストセラー作家になれるわけではない。「権威づけ」が必要だからだ。デール・カーネギー、松下幸之助、あるいはピーター・ドラッカーでもアルフレッド・アドラーでもいいのだが、読者が「やっぱりこれでいいんだ」と背中を押してもらった気分になれる権威が必要になる。
日本の職場環境の変化が「愛される理由」か
その点で「古典」は一つの落としどころになるだろう。自分ではすでに何となくそうだと思っていることを、誰かの後押しによって確証してもらう外部承認装置、それが自己啓発書の今日における役割であり、それを最もよく果たしうるのがカーネギーをはじめとする「古典」なのではないだろうか。
そうした確証を得るには、職場で誰かに少し聞くなり、教えてもらうなりすればよいと思うかもしれない。これに関して読者インタビューでは、上司が忙しくて聞く機会がない、職場の業務が細かく分かれていて自分の知りたいことを確かめられそうな人がいない、といった話がしばしば聞かれた。もちろんそのような職場ばかりではないだろうが、ここ20年近く続いている自己啓発書の隆盛は、日本の職場の変化にも関わりがありそうだ。
また、わざわざ人に聞くよりも、無数の手がかりを自由につまみ食いできる自己啓発書のほうが気楽だということかもしれないし、わざわざお金を払って一人で本を手にするというシチュエーションをつくること自体に意味があるのかもしれない。
「古典」だけが自己啓発書ではない。直球勝負で「いいこと」を述べる「古典」があるからこそ、異なる自己啓発書が生まれる。業種、年齢など読者層をより絞ったもの、「話し方」のように切り口を絞り込んだもの、むき出しの野心や支配欲に訴えかけるもの、図解やマンガ、物語仕立てなどの見せ方に工夫を置いたもの……。売れ筋のニッチを求め、またニッチに対しては「王道」が再度張り返され、自己啓発書は日々書店に並び続けている。
大妻女子大学人間関係学部専任講師。1980年、東京都生まれ。2009年早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(教育学)。著書に『自己啓発の時代』『日常に侵入する自己啓発』(共に勁草書房)。15年4月より現職。