公共性か、数字か、見え隠れするマスメディアの本音
もうひとつ考えられるのが「画(え)」の有無である。作詞家・作曲家の場合は、「その曲を歌う歌手」の映像を流すことができる。今年2月に作曲家の船村徹さんが84歳で亡くなったが、この場合は鳥羽一郎が『兄弟船』を熱唱している過去の映像を使うことができた。そして、船村さんの葬儀には、鳥羽のほかにも、舟木一夫、大月みやこ、伍代夏子といった演歌界の重鎮が姿を見せた。葬儀は多数の芸能人を一気にインタビューできる場となっており、これまたテレビ局にとっては貴重な映像素材の供給源となっている。
別に「人の命に優劣をつけるのはけしからん」と言っているわけではない。マスメディアというものは案外、公共性を考えているだけではなく、これまでの関係性や日々の仕事のしやすさ、そして「数字」が取れそうなもので動いている面があることを言いたいだけだ。
それは、自分に対する反省でもある。芸能・スポーツのニュースがよく読まれるから、と私もこれらの話題をネットニュースで多数出しているが、マスメディアの仕事をしているからには、より「公共性」を考えていかねば、とかまやつさんの訃報と、その後の若者とのやり取りで感じ入ったのだ。
メディアは「公共性」とか言いながら、実際はあざとい大人の事情でネタを選り好みしてるよな。「公共性」について、メディア関係者ならたまには考えたほうがいいんじゃない?
1973年東京都生まれ。ネットニュース編集者/PRプランナー。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライター、「TVブロス」編集者などを経て現在に至る。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットのバカ』『ウェブでメシを食うということ』『バカざんまい』など多数。