テレビの訃報は「内輪の論理」で選り好みされている!?

かまやつさんの訃報についても、多くの子どもたちや若者はピンときていないだろう。著名人の訃報を聞いたときに過去の映像や実績を瞬時に思い出せるということは、それだけ自分が年を取ったことの現れだ。

また、訃報を見ると、テレビが案外内輪の論理で動いているなと感じることも多い。それがよく表れるのが、「裏方」的な大物の訃報である。2008年に88歳で亡くなった作詞家・脚本家の川内康範さんの場合、森進一との間で「おふくろさん騒動」(森が「おふくろさん」の歌詞を勝手に改変したとして、2007年、川内さんが「もう歌ってほしくない」と著作権侵害を訴えた)があり、一躍テレビの主役に躍り出たため、訃報の際は多くの若者もピンときたことだろう。だが、そうした特殊なケースを除いてしまうと、昭和歌謡の作詞家・作曲家についてなど、若者はたいていの場合、ピンとこない。

50~60代の喪服姿の歌手が葬儀の際に「○○先生がいなかったら今の私はないです……」と涙ぐむシーンなどが出る。エンタメ業界において、その作曲家は重要な役割を担っていたのだろう。だが、若者を中心に、多くの視聴者はその影響力を把握していないのも、また事実だ。

ここで感じるのが、「人々に多大なる影響を与えたことが、世間的にはあまり知られていない」裏方に関して、テレビ業界以外の人の場合は川内さんほどの扱いがされないのはなぜか、ということだ。

たとえば、トヨタ自動車のカローラといえば、1966年の誕生以来50年間で全世界4410万台も売れた車であり、人々に与えた影響や思い出は計り知れないものがある。それこそ公共性は高い。初期の頃、カローラのデザインやエンジンの開発に責任者として携わったような人々は、すでに鬼籍に入っている人もいるだろう。

影響力の大きさから考えると、そうした人の訃報もテレビは大きく取り上げていいのにな……と思うのだ。新聞の訃報欄には載るものの、その葬儀の様子が全国放送で中継されることはない。

要するに、最強の公共的な場であるとされているテレビも、蓋を開けてみればテレビ業界の内輪の関係者を最重視していることが分かるのである。局の幹部が「あのとき、○○さんにお世話になったからな……」「そういえば、歌番組の審査員やってもらったよな……。遺族も多分喜ぶだろうし……」みたいなことも影響しているかもしれないのだ。