「金太郎飴」から国際金融集団へ
1950年8月、福岡県大牟田市で生まれる。近くに三井三池炭鉱の社宅があり、坑夫の一家が住んでいた。小学校3年の秋、炭鉱で大量の指名解雇があり、労働争議が激化する。労組のストや会社側のロックアウトが続くなか、会社の後押しで生まれた第二組合と第一組合の対立が続く。影響は、地域の生活にも及んだ。2つの組合員が憎悪を込めた言動をすると、子ども同士が同じことをする。本当は一緒に遊びたいのに、学校が終わると「お前ら、早く帰れ」と罵り合った。このとき、「極端はよくないな」と痛感する。「中庸」の志向の始まりだ。
東大法学部を卒業し、74年4月に入社。同期の大卒は390人もいた。野村では、新入社員は、まず全国の支店で営業を経験する。だが、あまりに多すぎて、50人近くが本社配属となる。その1人だった。以来、やってみたかった営業現場の仕事は、ついに回ってこない。
本社の3つの部に約3年ずついた後、総合企画室の業務課に配置された。金融・証券制度の改正問題などを手がける部署で、最大の仕事は監督官庁である大蔵省(現・財務省)との折衝だ。大蔵省の英語表記「Ministry of Finance」の省略形はMOF。だから、通称「MOF担」と呼ばれた。のちに大蔵接待事件で有名になった、あの「MOF担」だ。ここで、内外の金融・証券制度の歴史、変遷、趣旨が、頭の中に叩き込まれる。
2003年4月、野村ホールディングスの社長兼CEOと子会社の野村証券の社長に就任した。1年半前に、持ち株会社に移行していた。どういう経営形態が時代にふさわしいか、制度問題の次に考えてきた。いわば、持ち株会社の生みの親でもある。だから、社長就任に、誰も違和感はない。ところが、当人は「そう長くはやれないな」と思っていた。
昭和の時代は屋号の図柄から「ヘトヘト証券」と言われたように、野村は全員で倒れるまで突き進む金太郎飴集団だった。でも、多様な価値観が混在する平成の時代に、それでは飛躍は難しい。社会が寛容ではなく、絶えず説明を求めるようになって、みんな、行動する前から「どう説明するか」ばかりを考える。右も左もないほど幅がない状況になっては、新しいものは出てこない。「中庸」の出番もない。
では、野村に道はないのかと言えば、ある。昔の企業文化に戻る「先祖返り」などではない。グローバルに通用する金融サービスグループになることだ。それを進めるのは、自分の役ではない。いくらTOEICで満点近くを取ったと言っても、グローバル感覚は足りない。
08年4月、社長の座を退いた。57歳。普通の会社なら、これから社長になる年齢だ。昭和の野村のベースに、その上に新しい野村を築こうかと思ったが、後輩に「そうでないよ、先輩」と言われた。退きどきだな、と決断する。新経営陣は昨年9月、経営破綻した米国のリーマン・ブラザーズのアジア・太平洋部門の買収を決めた。約8000人の外国人がグループに加わる。新たな道へと、踏み出した。
いま、本社に近い大手町や日本橋にある英語学校が、賑わっていると聞く。社内で再び英語学習ブームが起きた影響だ、との説がある。旧リーマンの人たちとの連携を目指す意欲の表れか。自分がつくった学費支援制度は、いまもある。それが生きるなら、うれしい。