選挙のたびに誰かを叩くバッシングの声が聞こえるのは、少なからず、多数決という「ゲームのルール」に起因するわけだ。ゲームの様子がおかしいときには、プレイヤーだけでなく、ルールを疑ってみたほうがいい。

ボルダルールへの安易な批判に、「大きな改革ができない」といったものがある。万人配慮型の選択肢が勝ちやすいからだ。それは違う。いわゆる「決められない政治」は、その是非はさておき、現行の多数決のもとで起こっていることだ。既得権や組織票が力を持つのは、一部勢力の支持が結果に大きな影響を与えられる、多数決だからである。

多数決もボルダルールも「計算箱」だと考えると分かりやすい。インプットに対してアウトプットを出す。だが多数決はわずかなインプットしか受け付けない。有権者は「1位」しか表明できないからだ。だから人々の心のなかで2位や3位が変わっても、多数決はその変化を反映できない。民意に敏感でないのだ。一方、ボルダルールだと、多くの人々の心を少しずつ動かす政策が着実に点を集め、社会を変えうる。

社会制度は天や自然から与えられるものではなく、人間が作るものだ。いまそこにあるルールを、あるべき姿と混同してはならない。先の住民投票が、私たちが多数決主義の呪縛から逃れる契機になるならば、その「戦」にも時代のあだ花以上の意味があったことになる。

※1:これは社会的選択理論で、数学的に定式化され、証明を与えられる。拙著『社会的選択理論への招待』(日本評論社)の定理13を参照。
※2:中欧スロヴェニアではボルダルール、南国の島国ナウルではそれに似たものを国政選挙で採用している。また、日本の「マンガ大賞」はボルダルール、「本屋大賞」はそれに似たものを2次選考で活用している。

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