スキーの話がわかりやすい。ボーゲンしかできなかった人があるとき、パラレルをできるようになる。そのときになって初めて、パラレルを教えてくれた人のことばの意味がわかる。ボーゲンで緩やかな斜面を滑り降りるのはそれなりに面白いが、パラレルをマスターして急斜面やコブをすいすいと滑降するスキーはまったく違う楽しさだ。そのことを知っているスキーの先人は、いくらうまくボーゲンが滑れても、もう一歩の努力を要求する。その要求が、時と場合によれば意地悪に思えるかもしれない。
授業科目毎に、学生に対して、いわばどこまで力を付けるのか、シラバスで示している。そこに到達するまでは、学生に対してある程度の強制と無理を強いる。医療も、たぶん同じだろう。患者の予後を考えると、この治療をしておいたほうがよいと思う、しかし、患者には苦痛でその治療を避けたいと思う場合がありそうだ。
つまり、教育や医療には、レストランやホテルと違い、当事者に対して強制するプロセスが潜在的に含まれる。その背景には、教える側と教えられる側、そして治療する側とされる側の間の短時間では乗り越えられない情報格差がある。教育を受ける側、もしくは治療を受ける側は、自分にとって今何が必要とされているのかという自身のニーズがよくわかってはいないということ、そしてそのニーズを充たす手段についてはなおさらわかってはいない。これが理由だ。
医療と教育においては、ここが注意点でもある。その情報格差は、いつでもパワハラに変わる。そうならなくても、教育における強制的側面を強調すると、またぞろ学生たちに、「強制されてやらされるのが勉強。イヤな仕事の代名詞」の観念を植え付けてしまうからだ。
さて、いわゆる非営利組織のサービスにおいては、同じサービスであっても、通常のビジネスのサービスと性格が違うことに注意が必要だ。あらためて言うと、非営利のサービスの顧客は、対面している当人だけでなく、その家族や社会にも対応する必要があること。そして、その成果は短期的に判断することは難しいため、単なる当事者(患者や学生)の満足度だけでは、サービス成果の一面しかとらえることはできないこと、この2つである。
そして、それとともに2つの課題が生じる。第一に、サービスを受ける当人以外の顧客(その家族や社会)の満足度も考慮するという「社会に広がる責任」の視点。第二に、そのサービス終了後の予後の成果を観察するという「長期に及ぶ」責任の視点。この2つである。