納豆のねばりで意思を貫け
徳川光圀は美食家であった。生類憐みの令など歯牙にもかけず、牛、豚、鹿、山羊、兎、鴨と生類食べ放題、明国から亡命中の朱舜水を水戸に招き、儒学の指南を受ける傍ら、中華料理をも作らせ、食していた。
黄門さまのラーメンは、麺に小麦粉ではなく蓮根粉を代用したもので、食感は多少異なるものの、豚肉をふんだんに用いたスープなど現代のものと大差なかったらしい。
光圀は黒大豆を原料とする納豆も製造しているが、これは「新猿楽記」に記載されているものに近く、いわゆる浜納豆の部類と推定されているようだ。
水戸における納豆の歴史は古く、11世紀頃まで遡るとか。
食欲が自制心を凌駕し、行動まで支配しにかかったとき、私は納豆を「拵える」ことにしている。
40年前、上京した私は納豆といえば甘納豆しか知らなかった。わが郷里には納豆を売る店もなければ食べる者すらいなかった。笑い話のようだが、甘納豆と思って買ったら、形状がまるで異なり、首を傾げつつ、ぶつくさ言いながら砂糖をかけて食べ、それを東京育ちの友人に言ったら、醤油をかけるものだと教えてくれた。
その後、「魯山人味道」を読み、納豆の「拵え方」を知って、初めて、こんなに美味い食べ方があったんだ、と感動すらしたものだ。
さて、水戸での写真撮影を終え、予約した特急列車の乗車時間が迫るなか、料理研究家のもとを去る段になって、菅さんが玄関に立ち止まり、断固たる表情で、
「挨拶してから、帰る」
一歩も動こうとしない。スタッフも不平ひとつ洩らさずおとなしく従った。強制ではなく、こういう示しかたもある。
空腹に耐えかねて、納豆をこねまわしているとき、ふと、ありし日のあの菅さんの姿が浮かぶ刹那がある。