与那国島で知った「どなん」の味
ランタナの極彩色に惑わされたかふわふわとツマグロヒョウモンが来訪しても、さほど驚かなくなった。郷里では珍しくもない蝶であるが、東京に住まって40年、初めてわが家の窓外に発見したときには、慌てて飛び出し、まちがいない、と確認して、温暖化のせいか、と呟きつつ、いや迷蝶かも、と断定をためらった。それが夏だけでなく秋、春先にも目撃するにいたって、これは土着したにちがいない、と確信した。東京に進出してきたのはここ数年で、
「いずれオオゴマダラやアオタテハモドキなんかも定住するようになるのかも……」
灼熱の潮風にしゃくられて舞う姿を回想すれば、与那国島で過ごした日々が蘇ってくる。石垣島を経由し、船に揺られて到着したのは、74年8月末であった。
ビバークする場所を探して友人と浜をうろついていたら、赤銅色に焼けた肌の眼光鋭い翁に呼び止められ、事情を話すと、土地の言葉で、うちの離れが空いているから、好きに使っていい、と言われ、ついて行くとそれは荒れたお堂のようなあばら屋で、窓枠はあれどガラスも障子もなく、床板はあちこち剥がれ落ちていたが、屋根はシーサーが睨みを利かして守り堅牢、狭苦しいツェルトに汗まみれの野郎2人刺身で寝るよりはよっぽどマシとお礼を述べて上がり込んだ。
その頃の与那国には手つかずの自然が残されていた。腰の深さほどの海に潜れば、種々色とりどりの熱帯魚が群れを成し、さながら水族館。岩肌には夥しい数のタカラガイ、岩陰にはパイプウニがうごめく。それを両手一杯に抱えて「宿」に持ち帰り、コッヘルに海水を満たしてぐつぐつと煮て、友人と2人ニコニコと、まだかな、箸でつついていたら、
「やめとき。そんなんほかして、こっち来なはれ」
母屋は民宿で、そこのお客さんにお呼ばれして、ふるまわれたのが「どなん」であった。