父と入ったメイドカフェ
マイコンにはまった人たちは、概ね2つの方向に分かれて行きました。プログラミングとゲームです。任天堂が1980年に携帯ゲーム機「ゲーム&ウォッチ」、1983年には家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」を出して大ヒットさせましたが、父は手を出しませんでした。1990年に入ると、秋葉原最大のパソコン専門店「ラオックス ザ・コンピュータ館」が開店し、その周辺にも自作パソコン用の部品を扱う店舗が増え始めました。プログラム派もゲーム派もパソコンの性能を上げるため、パソコン用の部品を買い求めました。1994年には秋葉原におけるパソコン関係の売上額が、その他の家電の売上額を上回ります。
このころの父は、自作パソコンやプログラムにはまりながらも、これまでの趣味であるアマチュア無線の集大成に向かって邁進していました。1986年に日本全国1万局との交信を達成した後、新たな目標として世界各地の1万局との交信を計画します。当時、父の書斎であった「社長室」はすでに父の「おもちゃ」で埋め尽くされていたので、リビングの片隅に設けた机に無線機を置き、平日の仕事を終えた後も、家族が寝静まった夜中に小さな電球を灯しながら無線機に向かう父の姿がありました。
南極や無人島の臨時出張局との交信などの難関を乗り越え、挑戦を始めてから7年後の1993年に、日本で16人目の「世界10,000局よみうりアワード」を獲得しました。当時私はアメリカに住んでいたので、父のお祝いには駆けつけられませんでしたが、世の中の流行がアマチュア無線からパソコン通信、そして、インターネットと変化する中で、最後に長年続けてきた趣味の集大成を果たせてよかったと思います。
1995年にマイクロソフトWindows 95が発売されてから一般世帯にもパソコンが普及し、それまで一部のマニア向けであったパソコン用アダルトゲームが進化した「美少女ゲーム」を扱う店舗も秋葉原に増えていきました。さらに、秋葉原での「美少女ゲーム」の販促活動からメイドカフェが誕生します。私が初めて父と一緒に秋葉原で過ごしたのは、2004年の夏のコミケ帰りでした。当時はメイドカフェの黎明期で、全国のメイドカフェを行脚していた私はお勧めのメイドカフェに父を案内したのですが、父にとって居心地はあまり良くなかったようです。
当時のJR秋葉原駅周辺は再開発の工事中でしたが、中央通りには、アニメやゲームの関連グッズや音楽・映像ソフトを扱う店舗が目立ち始めていました。父はパソコンや電子部品の店舗を散策していましたが、大阪日本橋で鍛え上げた値段交渉の技が、秋葉原ではあまり通用しないので苦戦していたようです。
その後父は定年退職を迎え、今年で71歳になりました。今でも実家に行くたびに父の新しい「おもちゃ」が増えています。それは主にパソコンや周辺機器ですが、センサーを使った防犯用ライトや監視カメラ、番犬ロボットなど、電子工作の類もあります。母の趣味の茶の湯用にと、棚や座椅子も手作りしていたのには驚きました。かつて私が父を秋葉原に案内した際にプレゼントしたメイドさんの写真集が、今でも本棚に飾ってあるのを嬉しく思います。