――ご本人はそこまで意識してるんでしょうか。

【助川】それはどうなんでしょうね。でもある程度はわかってるんじゃないですか。批評は一切読まないとご本人は言っているし、作品の解釈を自分ではしない。「正解はないし、僕にだってわかりません」という姿勢を貫いています。批評や書評を読めば「そうじゃなくて、ここはこういうつもりで言ったんだよね」って解説したいところはいっぱいあると思うんですけど。

――積極的に解説している作家っていますか。

【助川】三島由紀夫はわりと解説する人ですね。新潮文庫の三島由紀夫の短篇集のなかで三島が自分で解説書いているのもあります。村上春樹も全集では自分で解題書いていますが、謎解きはしません。執筆時に自分がどういう状況だったかといったことは書いてもね。そこへいくと三島由紀夫は『わが友ヒットラー』で、最後に資本家のクルップが杖を落としたことによって、「これはドイツの資本主義の凋落を描いたのである」とか、そこまで自分で書いちゃいますからね。三島由紀夫は自意識過剰で、自分の作品のイメージとか自分の肖像イメージとか、全部自分でコントロールしようとしたわけです。メディアの中の自分のイメージも含めて。

――村上さんも外国のインタビューにしか出ないといった意味ではイメージコントロールしていませんか。

【助川】そう。だから、三島由紀夫と村上春樹が似ているという論文はいっぱいありますよ。村上春樹は三島由紀夫が嫌いだと言ってますけど、『羊をめぐる冒険』の第1章のタイトルになっている「1970/11/25」は三島由紀夫の自決の日のことですよね。かなり意識はしてると思うんですよ。で、多分、三島由紀夫よりもっとうまくやってやるぞという感じなんじゃないでしょうか。だから、出るとなったらコントロールできる範囲でちょこっとだけ出る、コントロールできないことはまったくコントロールしない。

日本文学研究者 助川幸逸郎
1967年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、横浜市立大学のほか、早稲田大学、東海大学、日本大学、立正大学、東京理科大学などで非常勤講師を務める。専門は日本文学だが、アイドル論やファッション史など、幅広いテーマで授業や講演を行っている。著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『可能性としてのリテラシー教育』『21世紀における語ることの倫理』(ともに共編著・ひつじ書房)、『光源氏になってはいけない』『謎の村上春樹』(プレジデント社)などがある。ツイッターアカウント @Teika27
(撮影=山本詩乃)
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