「戦友」が口にした結果へのこだわり
1953年11月、徳島市で生まれた。父は県庁の林道技師で、5歳下の弟が1人いる。小学校2年のとき、港町の小松島へ転居した。中学の修学旅行は、船に乗って瀬戸内海を渡った。かつて連絡船の沈没事故があったためだろう、小学校の高学年になると、船が沈んでもしばらくは浮いていられるようにと、遠泳の訓練をさせられた。
高校にかけて読んだ本は、亀井勝一郎の『大和古寺風物詩』や和辻哲郎の『古寺巡礼』などだ。日本人の文化的な基盤やアイデンティティーに関心を持ち、奈良の民宿にはがきで申し込んでは、出かけていく。
県立城南高校から東大の文科I類へ進み、法学部を卒業する。就職先を選ぶとき、何か、自分の将来を小さな世界に限定してしまうような寂しさが湧いた。でも、「銀行なら、世の中のあらゆる活動と関係あり、そういった寂しさが最も少ない業界ではないか」と思い、最初に訪ねた三井銀行で話を聞いて、納得する。
76年4月に入社、銀座支店へ配属された。1年目は預金担当で、窓口業務もした。続く3年半は融資担当で、禀議書などを書き続ける。その後、名古屋支店、人事部、資本市場部、秘書室、東京営業第6部を経て、冒頭で触れた財務部へいった。この間のことは次回触れるが、行く先々で貴重な出会いを重ね、財務部では宿澤広朗さんと出会う。
住友銀行との合併が決まり、住友で自分と同じ仕事をしていた宿澤さんと、合併後の仕事の進め方を決めた。彼は、早稲田大学のラグビー部でスクラムハーフとして活躍し、2年と3年で大学選手権を連続優勝したことで知られる。合併後、ディーリングルームで3年間、共にすごした。ラガーらしく、とにかくフェアで、しかも攻撃的。もちろん、「見可而進」だけではなく「知難而退」も早く、大胆な損切りもできた。