第二次世界大戦に敗北した日本は、GHQの占領下に置かれた。各省庁の精鋭を集めた終戦連絡事務局でGHQとの交渉に当たったのが、白洲次郎だ。一体どんな人物だったのか。別冊宝島編集部編『知れば知るほど泣ける白洲次郎』(宝島社)より、一部を紹介する――。
1950(昭和25)年5月22日、訪米を終え帰国し、記者団に語る首相特使の白洲次郎氏(中央帽子姿)=羽田空港
写真提供=共同通信社
1950(昭和25)年5月22日、訪米を終え帰国し、記者団に語る首相特使の白洲次郎氏(中央帽子姿)=羽田空港

日本の役人たちは初めて敗戦を知った

敗戦は日本国民にとってショックだった。米軍による日本本土の空襲が激しくなって、日本は勝てないのではないかと、冷静に感じていた日本人もいた。一方、多くの市井の人は、太平洋戦争の末期から敗戦を通じて、どう生き抜いていくかで精いっぱいであった。

そのなかで、日本を指導してきた官僚や軍人たちは、敗戦の重みを、ずっしりと感じざるを得なかった。彼らは、日本を敗戦まで追い込んでしまった張本人だからだ。

特に、日本に占領軍としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が来ると、彼らは借りてきた猫のように小さくなって、GHQに言われるがままになってしまう。明治維新以降、敗戦を知らない官僚たちは、GHQと戦うすべを持たなかった。

そこに登場してくるのが、白洲次郎だ。

近衛文麿のブレーンであり吉田茂の側近

白洲次郎は戦前から近衛文麿のブレーンとして活動していたが、戦後日本の礎を築いた吉田茂とも関係が深かった。吉田茂の妻・雪子の父親、牧野伸顕と、白洲次郎の妻・正子の父、樺山愛輔は同じ薩摩出身で境遇も似ていて非常に親しい関係だった。

そのため、吉田茂を正子はよく知っていた。なおかつ、吉田の別邸は大磯で、白洲夫妻もその近くに住んでおり、白洲次郎は頻繁に吉田の別邸に出入りするようになる。

牧野伸顕と樺山愛輔、そして吉田茂は日米開戦に反対であった。彼らは共同して開戦阻止に向けて動いていた。それを警戒していたのが東條英機である。3人は東條に睨まれ、思うように連絡を取ることができなかった。そのとき、メッセンジャーとして牧野、樺山、吉田の間を行き来していたのが次郎だったのだ。