5年間に学んでいたこと

「べらぼう」では、天明5年時点でも「人まね歌麿」だが、もう少し早い時期に、蔦重は歌麿を独立した絵師として起用していた。

蔦重が吉原から日本橋通油町に移ったのは天明3年(1783)9月だが、その直前の同年7月、歌麿は『燈籠番附 青楼夜のにしき』ではじめて「喜多川」と名乗った。ちなみに、喜多川は蔦重の養家の姓で、蔦重の本名は喜多川柯理といった。蔦重が歌麿に喜多川姓を名乗らせたのは、版元と絵師という関係を超えて、「べらぼう」が描く兄弟のような思いがあったからではないだろうか。

そして、この年の8月に吉原の祭り「俄」に取材をした『青楼仁和嘉女芸者部』と『青楼尓和嘉鹿島踊 続』で歌麿は、華麗な衣装に身をつつんだ芸者や女郎たちを、色の数も多い大判の錦絵全6図に描いた。「青楼」とは遊廓を指す言葉である。