出勤する途中の道ばたに怪我をして横たわっている人がいたら、あなた、どうしますか。
下手に救急車なんて呼んだら、状況を聞かれて時間を食われてしまう。今日は重要な会議があるから、見て見ぬふりをして通り過ぎよう。こんなふうに考えるのが、普通かもしれませんね。
でも、会議に遅れるからなんて、言い訳です。人がひとり、目の前で死ぬかもしれないのを助けることもしないで、いったい何の仕事ですか。倒れている人のそばへ飛んでいって、「大変。大丈夫ですか」と声を掛けるのが、人間として当たり前の姿です。この原稿を読み直している今、通行人の誰もが素通りしたことで、怪我人が死んでしまったという中国でのニュースが入りました。ああ、ついに礼節の国だった中国までもそうなったかと胸がふさがりました。お釈迦さま(ゴータマ・ブッダ)はおっしゃいます。
「『その報いが、自分には来ないだろう』と思い、善行(ぜんぎょう)を軽く見るな。水一滴のしたたりも、つもれば水瓶(すいびょう)をあふれさせる。心ある人は、小さな善をつみ重ねて、いつのまにか、福徳に満たされている」(ダンマパダ=法句経)
お釈迦さまの教えとは、ひとことで言えば、悪いことをせずに善いことだけをしなさいということです。道ばたに怪我をした人が倒れていたら、迷わず手を差し伸べる。それが善いことです。
なぜそれが善いかは、立場を逆さまにしてみればすぐにわかる。あなたが轢き逃げに遭って道ばたで呻いているのに、目の前からさーっと通行人が逃げていったらどう思いますか。「なんて薄情な世の中だろう」と思うでしょう。相手の立場に立ってものを考えれば、人間は他者のためにどんなことでもできるのです。
特に出家者にとって、善いことをするのは義務です。そこに、やるとかやらないとかいう選択の余地はない。なぜなら、出家者にとってお釈迦さまの教えは絶対だからです。信仰を持つとは、そういうことなのです。