「片づけられない」ことの問題化

2000年代における捨てること(片づけ)への注目は、ここまでに述べた文脈とは別のところでも起こっていました。それは2000年にアメリカの心理療法士サリ・ソルデンさんの『片づけられない女たち』の翻訳刊行以降に起こった、「片づけられない」ことの問題化です。

同書および、2001年刊行のアメリカの心理療法士リン・ワイスさんの『片づかない!見つからない!間に合わない』(両書とも、ニキ・リンコさんの翻訳によって、WAVE出版から刊行されていました)は、ADDという診断名を切り口にしていました。つまり、片づけられない女性たちのなかには、「ADD(注意欠陥障害)という神経系の障害が原因で苦労している人たちがいる」(『片づけられない女たち』3p)というわけです。

しかしこれは、片づけられないのはADDだからだ、と「障害のせい」にする書籍では決してありません。むしろ同書は、「ADDであるかどうかにかかわらず、部屋を片づけられない、こまやかな気配りの苦手な女性たち」を、「片づけられないからといって、夢をあきらめないでください」、「散らかった部屋の中でも、人生はもう始まっているのです」と応援する書籍であり、また「ADDという切り口から、社会のダブルスタンダードを照らしだす」書籍でもあるといいます(8-9p)。ここでいう社会のダブルスタンダードとは、女性ばかりが片づけること、ひいては家事とくに掃除を行うよう求められ、それができないばかりに結婚に踏み切れない、人間関係に支障をきたす——男性よりも女性にそうしたトラブルは顕著に現われる——ということを意味しています。このように、「片づけられない」ことは、一種の問題提起としてまず現われたのでした。

しかしこの「片づけられない」という言葉はやがて、ADDあるいはADHD(注意欠陥・多動性障害)とは切り離されて用いられるようになります。たとえば雑誌メディアでは、2001年8月の『MINE』で「片づけられない女たちの、収納解決塾」という特集が組まれていますが、ここには何らかの障害に関する言及はありません。

書籍タイトルでも2003年から2004年にかけて、サニー・シュレンジャーら『いつも時間がないA君と片づけられないBさんへ』、マリリン・ポール『だから片づかない。なのに時間がない。「だらしない自分」を変える7つのステップ』、荒井有里『出したらしまえない人へ しまおうとするから片づかない』といった書籍が刊行されていますが(翻訳書の原題には、片づけられないということに関する文言はありません)、ここにも障害に関する言及はありません。ポールさんの著作では、タイトルにもあるように整理整頓ができないのは「だらしない」ためだとされています。また、荒井さんの著作では『片づけられない女たち』を引きつつ、「ADD自体あやふやな病気」で、実際に何らかの障害が原因で片づけができない人は「ほんのひと握り」であり、「『出したらしまえない』のは病気ではありません」と述べられています(『出したらしまえない人へ』54-55p)。

荒井さんはかなり注意深く書かれてはいますが、いずれにせよどの著作も、片づけられないのは病気ではないと述べています。これらのプロセスは社会学の概念では「医療化」と「脱医療化」という観点から捉えることができます。このテーマに関する社会学の基本文献であるP.コンラッド/J.W.シュナイダー『逸脱と医療化——悪から病へ』によれば、医療化とは「ある問題を医学用語で記述するということ、ある問題を理解するに際して医療的な枠組みを採用すること」(1p)といった定義がなされています。医療化の一つの機能は、同書の副題にもあるように「悪から病へ」、つまり「病気」というレッテルを与えることで、ある現象を道徳上の問題ではなく治療上の問題へと書き換えてしまうことにあります(11p)。脱医療化は概していえばその逆です。

同書では「医療化が周期的な次元を持つ」、つまりある対象は、専門的な認定、公的位置づけ、人々の意識といったさまざまな水準において「悪しきものと病めるものとの認定の間を行ったり来たり」するとも述べられています(512p)。「片づけられない」ことはまさにそのような展開をたどりました。当初、医療的な枠組みとワンセットで問題提起され、話題となる。しかし間もなくそれは病気ではないと差し戻され、書籍、雑誌、ワイドショーや情報番組等で「片づけられない」ことは、病気ではないけれども「困った人たち」というような扱いで報じられ続けるようになる。この問題を医療的な枠組みから捉えるべきか否かは私の能力を超えるものですが、いずれにせよ、「片づけ(られない)」ことへの注目がこうして集まったことも、近年の片づけ本ブームを理解する補助線になると私は考えています。