「お笑い怪獣」明石家さんまの意外過ぎる一面
明石家さんまと言えば、タモリ、ビートたけしと並ぶ「お笑いビッグ3」のひとり。「お笑い怪獣」というなんとも物々しい呼び名を持ち、お笑いにかける熱量の凄まじさで知られている。だがさんまは、実は生きづらさを抱えた現代人に刺さる人生哲学の持ち主でもある。ここでは、さんまのそんな意外な一面に光を当ててみたい。
1955年生まれの明石家さんまは、今年7月でちょうど70歳。だがいまもテレビで見せるエネルギッシュな姿は私たちが抱く「古希」のイメージからはほど遠い。スマートな体形など見た目もずっと変わらない印象だ。むろんトークの鋭い切れ味も健在で、笑いの反射神経に衰えは感じられない。いまだに疲れ知らず、元気という点では「お笑いビッグ3」のなかでも群を抜く。
さんまは高校卒業直前で落語家・笑福亭松之助に弟子入り。芸人人生のスタートを切った。
ただ、落語が好きというよりは、寄席で見た松之助の新作落語のギャグが面白いと感じたからだった。弟子入りの理由を聞かれて「センスがいいから」と正直に答えて松之助に怒られたらしい。本名は杉本高文。芸名の「さんま」は、実家がさんまの水産加工業を営んでいたからというのは有名な話だろう。
さんまの「細かすぎて伝わらないモノマネ」
学生時代から学校の人気者だったさんまは、芸能界入りしてまもなく頭角を現す。
きっかけは、人気バラエティ番組『ヤングおー!おー!』(毎日放送、1969年放送開始)。さんまは、当時阪神タイガースにいた小林繁のピッチングフォームのモノマネでブレークした。いまでこそ野球選手の形態模写はよくあるが、その頃は「細かすぎるモノマネ」はまだ一般的ではなく斬新だった。
その頃からトーク力も抜群で、たちまちさんまは人気者に。“タレント・明石家さんま”の誕生である。そして上京。売れ始めた吉本芸人が東京進出するパターンは、このときのさんまが先鞭をつけたとされる。
漫才ブームのなか、フジテレビ『オレたちひょうきん族』(1981年放送開始)の「タケちゃんマン」ではビートたけしと丁々発止のアドリブ合戦を繰り広げ、さんまの存在は一気に全国に知れわたった。トレンディドラマの先駆け『男女7人夏物語』(TBSテレビ系、1986年放送)では主演として大竹しのぶと共演し、高視聴率を獲得した。マルチな活躍ぶりは、芸人の域を超えてもはやアイドルだった。