※本稿は、ブレネー・ブラウン、片桐恵理子訳『dare to lead リーダーに必要な勇気を磨く』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。
職場をむしばむ「恥」という厄介なもの
組織で「恥」を探すのは、家のなかに白アリがいないか調べるようなものだ。家のなかで実際にシロアリを見つけたら、深刻な問題がしばらくつづくことになるだろう。
会社や学校、礼拝所のなかで、実際に恥を(従業員を叱りつける上司、生徒を軽視する教師、恥を支配の道具にする聖職者、恥を社会正義の道具にする活動家)見つけたら、それはあなたの文化に対する本格的な脅威を目の当たりにしているということだ。
そうなったら、それがなぜ、どのようにして起こったのかを解明し、(恥じることなく)即座に対処しなければならない。
厄介なのは、たいていの場合、恥は「組織」という壁の背後に隠れているという点だ。活動を休止しているわけではなく、革新、信頼、つながり、文化をじょじょにむしばんでいくのだが、その姿を特定するのはむずかしい。
たとえば、つぎのようなものに恥はひそんでいる。
これらの行動はすべて、恥が「文化」に浸透しているしるしである。
後々引きずりやすい“嫌な指摘”とは
もっとわかりやすい兆候は、恥があからさまに「管理ツール」になっている場合だ。リーダーシップを取るべき人間が、いじめをしたり、同僚の前で部下を批判したり、公の場で叱責したり、意図的に恥ずかしさや屈辱感を煽る報奨システムを設けたりしてはいないだろうか?
あるワークショップで、ひとりの女性が涙を浮かべてこう言った。「私の恥はあまりにも深すぎて、どうやったら(その核心に)たどり着けるのかさえわかりません」
その場にいた彼女の同僚たちは、上司がみんなの前で何度も批判してくるのだという彼女の話に、注意深く耳を傾けていた。
学校や教会では、必ず恥がつきまとう。恥に関する私たちの最初の調査では、85パーセントの人たちが子ども時代の恥ずかしかったエピソードとして「学校での出来事」をあげており、そのせいで学ぶ姿勢が変わったという。
しかも、そのうち約半数が思いだしたのは、私が「創造性の傷」と呼ぶもので、書く、つくる、歌う、踊るなど、特定の「創造的才能」がないと指摘された出来事だった。
たいていの場合、こうした状況下で使用されるツールは「比較」である。創造性や革新は恥のグレムリンに弱く、比較されることで、そのポテンシャルを阻害されてしまう。
一方で、インタビューに答えてくれた90パーセント以上の人びとは、彼らの「自己価値や可能性を高めてくれた人物」として、教師、コーチ、学校管理者、大学教授などの名前をあげている。
矛盾するように見えるこの結果は、いったいどういうことなのだろう?