応仁の乱を室町時代後期、京都を中心に繰り広げられた内乱だ。将軍家の後継者争いや有力大名の対立が複雑に絡み合い、幕引きまでに約11年もかかった。この歴史的大乱の発端は何だったのか。『室町アンダーワールド』(宝島社)より、学習院大学教授・家永遵嗣さんの解説をお届けする――。
足利義政像(左)と細川勝元像(右)
足利義政像(左)と細川勝元像(右)(画像=左:東京国立博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons、右:龍安寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「悪女・日野富子」はここから始まった

応仁記』は日野富子を大乱の原因として指弾し、その「悪行」を描いている。

日野富子は夫の足利義政が弟義視に将軍職を譲ろうとしたことに不満を抱き、わが子義尚を将軍にするよう山名持豊に依頼し、これを容れた山名が、義視を亡き者とするために義視の後見人細川勝元との対決を決意した。持豊が畠山義就を京都に招き、義就と畠山政長の対立が口火になって応仁の乱が始まった。これが、その内容である。

このエピソードは、伊勢貞親が足利義視を誅殺するように義政に進言して失脚した、文正の政変に関する記述の直後にある。山名持豊は伊勢貞親と対立していたから、義視誅殺問題を厳しく糾弾していた。その山名に対して、富子が義視を亡き者にせよと迫り、持豊がこれを受け容れたという話になっているわけで、無理筋である。

文正の政変のあと、義視は山名と結んで畠山義就に肩入れしている。富子が畠山義就の帰京に尽力した徴証はあるけれど、義視を陥れようとする脈絡に位置づくものではないのである。

こういった事情を踏まえて、日野富子を大乱の元凶とする『応仁記』の記述はデマゴギーである、とみるのが私の意見だ。同時代の公家・僧侶の日記には、富子を乱の原因だとする記述が全くない。後世の作り話である可能性が強い。