「なぜ」から「どのように」の発想へ

それは「なぜ」と「どのように」を区別することです。舘神さんの議論は概して、システム手帳の登場、終身雇用制の揺らぎといった原因を定めて、手帳の利用のされ方や「手帳術」の変容を捉えようとする「なぜ」の考え方をとっているといえます。これは、社会的現象が起こるに至った大きな文脈を捉えるには有意義ですが、先にいくつか述べたように、より細かく考えていこうとする際に行き詰ってしまうことになります。

ここで、原因ではなくプロセスを追う、「どのように」の考え方を採用することで、その先に進むことができると私は考えます。「手帳術」がより具体的にどのようにして登場したか、その内実はどのように変わってきたか、他の啓発書ジャンルはどのように影響を及ぼしてきたのか、同じような位置づけの啓発書ジャンルはあるのか、著者や編集者はその時々でどのように考えて情報発信を行ってきたのか(これは本連載では扱えていませんが)、等々を考えていくのです。私がTOPIC-1から3で行ってきたのは、この「どのように」のアプローチでした。

「なぜ」と「どのように」の区別は、プッシュ要因とプル要因という区別に近いものです。つまり、市販の手帳を自ら購入すること、それによって自らを管理することへと押し出す社会的背景(プッシュ≒なぜ)と、手帳(術)がどのような内実をもって人々を惹きつけ、また人々に影響を与えているのか(プル≒どのように)を区別して、双方から社会的現象について考えてみようというわけです。

「どのように」を追いかけ、社会的現象の内実をつぶさに見ていくことで、社会的背景から「なぜ」を説明しようとする解釈とは異なる解釈を示せるようになります。その解釈のベクトルは、社会から手帳(術)を説明するのではなく、手帳(術)から社会について考えるという向きをとります。このテーマに関していえば、前回第7テーマの後半から繰り返し述べている、日々のあらゆることがらを自己啓発の素材にしていこうとする「日常生活の『自己のテクノロジー』化」という解釈がそれです。

TOPIC-1から3で幾度か述べてきたことですが、私は「手帳術」はこの動向の一端であると考えています。この観点から整理するならば、「手帳術」が定着するような社会とは、手帳をつけるという日常生活の些細な一コマに、大きな意味を持たせる社会なのだ、ということになります。言い換えれば、日常生活が気づくと自己啓発の実験場と化してしまうような現代社会とは、日常生活の過ごし方や考え方を少し変えるだけで、そこから夢の実現や人生の変革といった「一点突破・全面展開」が可能なのだと主張できるほどに、日常生活そのものに濃密な意味・哲学・理論を詰め込もうとする社会なのだと考えられます。
このとき、ノートやメモへの注目も、日常の微細な一コマに多くの意味が詰め込まれる事例の一つと位置づけられるようになります。また、時間管理や発想、夢や「自分らしさ」に関する書籍の動向に独自のものがあることを認めながら、それらがどのように「手帳術」と結びついてきたのかを分析していくことができるようにもなります。ただ、これに関して今回行えたのは、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』との関連の指摘のみでした。

そこで次のテーマにおいて、隣接する領域の動向をより意識的に押さえながら、「どのように」の系譜を追いかけてみたいと思います。それは、手帳やノートやメモといった「書く」こととは違うのですが、やはり日常的な一コマに、夢の実現や自分自身の変革が託されるようになっていく系譜です。というわけで、次回のテーマは「そうじ」です。より具体的に考えてみたいのは次のようなことです――「そうじ」と夢や人生の結びつきは、いつ頃、誰の手によって、どのように生じたのか。

『「モノと女」の戦後史
 天野正子・桜井 厚/有信堂高文社/1992年

『知的生産の技術
 梅棹忠夫/岩波書店/1969年

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