ハッピーな話ではない『源氏物語』はなぜ読まれ続けてきたのか
【角田】「昭和男性的」な基準によって改変させられ、押しつけられてきた読み方があるとするならば、たしかに、それを取り払ったほうが、平安時代の人々の精神性が理解しやすくなるかもしれない。
『源氏物語』を今、どんなふうに読んでいけるでしょうか?
【山本】私は読者が自由に読めばいいと思っています。私自身はといえば、紫式部が書こうとしたのは、人の生きにくさだと思っています。女性に限らず、人間はみんな生きにくい。そうした思いが千年前からあったということを、『源氏物語』のなかに見出しています。
【角田】けっしてハッピーな物語ではないものが、なぜ千年間も残されてきたのだろう。そう考えてみると、やっぱり私たちは、人の生き死にの間にあるものが見たいんだと思います。人がどうやって生きるのか。何を思い、どう動いたら、どんな裁きがあるのか。そういう因果も含めて見たい。きっと『源氏物語』には、それが書かれているんですよね。
【山本】そうですね。
紫式部は、最高権力者になった道長の「光と闇」を見ていた
【角田】善いことをしたから幸せになれるかと言ったら、そうでもない。権力をもったから幸せになれるかと言ったら、そうでもない。「愛は人を幸福にするのか、不幸へと導くのか」と同じくらい、「権力は人を幸福にするのか、不幸へと導くのか」というのも、実は根源的な問いだと私は思っています。
紫式部は、最高位の権力者になっていく道長の状況と、かえってそれに脅かされる道長の〈光〉と〈闇〉を見ていたんですよね。
【山本】ええ。「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と道長は詠む。この歌を私は、娘や息子たちの出世を見届けて「今夜は最高だ」と喜んだ戯れ歌だと考えています。しかし一方でこのとき、道長はすでに病いに罹っていました。栄華を手にしたかと思えば、病いに倒れ、出家もする。手にした権力が大きくなればなるほど、失墜や謀略や裏切りを恐れ、心の不安が増悪していく。そうした道長を、紫式部は肉迫して見ていたと思います。
【角田】そうであれば、「権力は人を幸福にするのか、不幸へと導くのか」という問いも、紫式部のなかに強く生まれたことでしょう。愛と幸福をめぐる「女性的」な問いも、権力と幸福をめぐる「男性的」な問いも、『源氏物語』にはしっかり吸収されている。その女性的、男性的、という捉え方も今後変わってくるはずですが、でもどちらの問いも、この先消えることはないと思います。
それは、私たちがずっと考えている問いで、今なお答えが出ていない。だから、「昔はこうだったんだね」というふうに古びることがなく、どの時代にもフィットする読み方が『源氏物語』にはあるんでしょうね。