母親の顔色を窺いながら生きるように
妹は、姉のその言葉を聞いて大泣きしたと言うが、幼い姉妹がこのあと生きていくために取った「処世術」だった。
「もしかしたら、そのころから人の顔色を窺って生きるようになったのかもしれません」
ツムギは、なにか人生の選択肢に直面したときは、母親の顔色次第で道を選ぶ、という生き方に変わっていった。中学に入ったときには仲の良かった友達とテニス部に入りたかったが、用具や遠征費など「なにかとお金がかかりそう」という母親のひと言で、楽器は貸与されて経済的負担が少ない吹奏楽部に変えた。
高校進学も同様だった。本心では電車で通学する市外の進学校を目指したかったが、自転車で通える平凡な地元の高校を選んだ。娘たちの留守を嫌う母親の顔色を窺ったのだ。
「こういう話をすると、母親が毒親って思われるかもしれないですけど、そんなことはないんです。当然育ててもらった感謝もありますし、親子仲が悪いわけでもないんです」
ツムギはそう弁解するものの、関係は決して正常とは思えなかった。
将来の目標は「海外で働く」こと
母親の顔色を窺い進んだ高校とはいえ、楽しく過ごしたという。“人並みに恋愛”もして、将来の目標とも言えるものを見つけた。それは海外で働くということだった。
「きっかけはあまり覚えていないんですけど、もしかしたら英語が得意だったとか、そんな理由です。海外の人のSNSを見ると、そこには知らない世界が広がっていて。違う世界を見たいという気持ちが強くなりました」
アメリカやイギリス、英語圏の人のSNSに夢中になった。有名人ではなかったが、そこで広がっている自由闊達な世界は、ツムギのいる日常とはかけ離れて見えた。
このころツムギは母親の夜勤の日、中学生の妹の世話を任されていたのである。世話といっても夕飯を作って食べさせ、翌日は朝ごはんを用意して一緒に家を出るだけではあったが、いつしか大きな負担になっていった。
ツムギは高校3年生になっていた。このころ初めて母親と対立したことがあった。大学進学についてだった。ツムギは東京の英語や国際関係を学べると評判の大学に進学することを夢見ていた。ツムギが通っている高校からは少々“背伸び”と思われるほどの有名私大だった。
母親は案の定ツムギの上京に難色を示した。