田沼意次を悪玉に仕立て上げた教授

ちょっと難解な文章だが、「種々の弊害を惹起す」などと意次をことさらおとしめ、彼の名前なんて重要ではないので教えなくてよいとか、賄賂をもらうだけでなく饗応を法令で催促したなど、いかに悪い人間だったかを書き連ねていることがわかる。

一方、定信については「文武の道に秀でた人で、老中となるに及び、(略)節倹を行ひ、武備を励まし、奸邪かんじゃを斥け、俊才を挙げ、幕府復興るに至つた」とベタ褒めである。こうして意次=悪人、定信=善人というイメージが確立していったのだ。

先の大石氏は、「田沼意次の悪事・悪評なるものを総まとめにして世間に周知させたのが、辻善之助氏の『田沼時代』という著名な著書である」(『田沼意次の時代』)と、意次の悪評に拍車をかけた歴史書を指摘する。

同書は大正4年(1915)に刊行されたもので、著者の辻善之助は当時、東京帝国大文科大学助教授だった。後に同大学の名誉教授となり、文化勲章を授与された歴史学の権威である。

そんな辻氏が不確かな史料を用いたり、恣意的に史料を取り上げ、「田沼意次のみを悪玉」に仕立て上げたのだと断じている。さらに大石氏は、「田沼意次についてこれまで紹介されてきた『悪評』はすべて史実として利用できるものではない」と明言する。

結論を言えば、田沼意次は取り立てていうほどの賄賂政治家ではなかったのである。

物腰柔らかく、職務精励がモットー

そもそも当時、付け届けによって出世や利得をはかるのは珍しいことではなく、幕府の最高権力者に贈答品が殺到するのは、それが意次でなくても当然の現象であった。

では、意次は本当はどのような人物だったのだろうか。

残念ながら、その人柄がわかる一次史料(当時の日記、手紙、公文書など)は極めて少ない。そうしたなかで、意次が家中に与えた遺訓がある。深谷克己氏はこれを分析し、意次の性格を次のように論じている。

意次は「家臣が主家のために思いつくあれこれを遠慮せず、上下の身分を問わず建言することを指示していた」、「日常接触する者には丁寧で、物言いはやわらかく率直でわかりやすく、『遺訓』でいっているように『そけもの』(異風者)をきらい、乱れのない格好と職務精励を日頃のモットーにしていたのにちがいない」(『日本史リブレット人田沼意次「商業革命」と江戸城政治家』山川出版社)

つまり、まっとうな人格者だったというわけだ。

【関連記事】
赤穂浪士は"バカ殿"の尻ぬぐいで切腹させられた…「美談」として描かれる『忠臣蔵』の"不都合な真実"
石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」
NHKは「吉原の闇」をどこまで描くのか…次の大河の舞台「江戸の風俗街」で働く遊女4800人の知られざる生活
遊女は「人参10本分の値段」だが、美少年なら30万円…次のNHK大河の見どころ「江戸の風俗街」の驚きの階級社会