エピソードの出所は政敵の松平定信一派
現在の教科書にも「わいろが横行」とか「賄賂や縁故による人事」という文字が載っている。やはり、「田沼意次が賄賂政治家だという評価は変わっていないではないか」そう考えるのは早とちりである。もう一度、山川の教科書をよく読んでいただきたい。
この時代に賄賂が横行したとあるが、それは単に当時の風潮を述べているだけで、意次自身が賄賂を受け取ったとは書かれていないことがわかるはず。
意次が賄賂政治家だったことについて、近年、疑問が生じているのだ。
確かに江戸時代の史料には、意次が賄賂を受け取った記述がいくつも残っている。ただ、その出所をよくよく探ってみると、平戸藩主・松浦静山など意次の政敵・松平定信一派が発信していたり、誰彼と悪口を言う人物が書いていたりする。
しかも、研究者の大石慎三郎氏によれば、こうした賄賂に関する逸話は「すべて田沼意次が失脚したのちに書かれたものである」(『田沼意次の時代』岩波書店)という。田沼が政権を握っていたときの記録ではないわけだ。
なのに、賄賂政治家の汚名を着せられたのは、やはり意次を失脚に追いやった松平越中守定信とその一派の仕業だと思われる。つまり意次失脚後、わざと巷にフェイクニュースを流した可能性が高いのだ。
定信は意次を殺したいほど憎んでいた
政権を握った人物が前の権力者を貶めることは歴史上よくあることだが、ここまで悪評が広まったのは、定信に明確な復讐の意図があったからだと思われる。
じつは、定信は意次を殺したいほど憎んでいたのである。というより、刺し殺そうと短刀を懐に入れて江戸城内をうろついていた。本人が告白しているから本当だろう。
世の中を腐敗させた田沼政治を憎んだのだというが、定信が意次の妨害で将軍になりそこねたからだとする説もある。
ちょっと怪しげな話だが、面白くもあるので、紹介しておこう。