徳川将軍になれるチャンスを逃した
十代将軍徳川家治には嫡男・家基がおり、彼が十一代将軍になるのは確実であった。
ところが18歳のときに急死し、次期将軍には御三卿(八代吉宗の子や孫の家柄)から一橋家の家斉が選ばれた。これを松平定信が憎悪したというのだ。
じつは定信は、御三卿の田安宗武の次男で、そのまま田安家にいたら、このとき将軍になれた可能性が十分にあった。田安家を継いだのは兄の治察だったが、治察はとても病弱で、いつ没してもおかしくない状態。このため田安家では、次男の定信を家中に置いておきたかった。
なのに定信は、幕府の命により、無理やり白河藩主松平定邦(十一万石)の養子に出されてしまった。案の定、それから半年後に治察が死んでしまい、一橋家は当主不在に陥ってしまう。そこで田安家としては、幕府に定信の復帰を願ったが、認められなかったのである。
そしてそれから5年後、先述のとおり、将軍家治の嫡男・家基が急逝したというわけだ。もし定信が田安家の当主になっていたら、英邁の噂が高かったので、十一代将軍を拝命していたかもしれない。つまり定信は、裏で田沼意次が自分の将軍就任を妨害したと信じ、憎悪するようになったという説だ。
人気が高まる定信、人気が落ちる意次
真偽は不明ながら、定信が意次を殺したいほど憎んでいたのは事実であり、そんな彼の一派によって意次の悪評が流されたことは頷けよう。
しかも、松平定信は寛政の改革の実行者であり、清廉潔白な人物だった。だから明治時代になっても人びとの尊敬を集め、あの渋沢栄一も非常に敬愛していた。そのうえ大正時代には、定信が支配していた白河の地に彼を祭神とする南湖神社が創建されている。
このように、定信の人気が高まれば高まるほど、敵である意次は不人気になっていくのは必然だった。
私の手元に明治時代末の『尋常小学日本歴史教授書』(教員の歴史教授法の手引き書)があるが、そこに意次のことがどう描かれているかをみてみよう。
「田沼意次が、家治の時には側衆となり、遂には大名になり、今や老中に進み、一門皆顕要の位置に立ち、茲に威福を弄し、下情を壅閉して種々の弊害を惹起すに至つた(旧教科書には田沼意次の名ありたれども新教科書には省かれてある。国史としては其の氏名の如きは重要にも非ざれば、便宜省略するも可なり。)
今其の弊政の例を簡単に挙ぐれば、賄賂公行は言ふを待たず、諸大名などが家督の祝に老中を招待して饗応する事を法令で催促するやうな事さへあつた」