2年ほど前、ある雑誌の企画で著者の池谷裕二さんと対談したことがある。
「ものすごく頭のいい人」だった。
「頭のいい人」はたくさんいる。物知りで、話術にたくみで、座持ちのいい人もたくさんいる。でも、どんな相手と話しているときも、相手のわずかな反応の遅速や思いがけない質問から、自分の専門的研究の新しいアイディアをその場で思いついてしまう人というのは珍しい。「ものすごく頭がいい」というのはそのことである。
専門家同士で話しているときだけが「仕事」で、非専門家に専門的知見を噛み砕いて話すことは(一文の得にもならない)「啓蒙」的ボランティアだと思って見下している学者がいる(かなり多い)。
池谷さんは違う。彼は非専門家(私のような文系人間や、この本の聞き手である高校生たち―紹介し遅れたけれど、これは池谷さんの出身高校の後輩の高校生たちを相手にした授業の記録である)を相手に、脳科学の最新の学説を説明しているうちに「次のアイディア」を思いついて興奮し始めてしまうような知性である。
この本の最大の魅力はその点にある。池谷さんは「すでに知っていること」を解説するためにこの本を書いているのではなく、この書物を書きながら(正確には講義をしながら)、専門にかかわる「新しいアイディア」を得ているのである。そして、この本はまさに「脳はどのように創発するか?」という問いを中心的なテーマにしているのである。
読者は目の前で、卓越した知性が「創発」するありさまを砂かぶりで見ることになる。
脳がノイズを素材にして秩序を生成するプロセスについての鮮やかな記述を読みながら、私が一番感心したのは、池谷さんが一貫して「どうやったら脳はそのパフォーマンスを上げることができるか?」という遂行的な問いにこだわっていることである。「遂行的」というのは、池谷さん自身の脳をどうやって活性化するかをいつも考えているという意味である。
考えてみれば当たり前のことだが、学者の第一義の責務は「自分の頭の機能をよくすること」に決まっている。けれども、周りを見ると驚くけれど、この責務をほんとうに真剣に、自分に課している学者はきわめて少ない。
人間の知性は怒っていたり、悲しんでいたり、焦っていたりすれば機能が低下する。だから「怒っている学者」というのはその一点ですでに知性がかなり不調であると推察して過(あやま)たない。
私は池谷さんを現代日本を代表する卓越した知性として久しく畏敬しているけれど、それは池谷さんがどうやって自分を上機嫌に保つかということに最優先の配慮をしているからである。現にこの本の中で池谷さんは、ほとんど全編笑いっぱなしである。