成功者に求められる素養も時代とともにどんどん変わる

世界で最も影響力のあるワイン評論家とされる、アメリカ出身のロバート・パーカーという人がいます。

もともと彼の本業は弁護士で、ソムリエでもなんでもありませんでした。パーカーの斬新だったところは、それまでプロの間で美味しいとされていた高級ワイン、たとえばシャトー・マルゴーなどではなく、アメリカの一般大衆に受けそうなテイストのワインを高く評価したことです。

赤ワイン、ローズワイン、白ワイン
写真=iStock.com/Giovanni Magdalinos
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そういったジャッジが大勢の人に受けたからこそ、彼は大評論家となったのであり、今ではこの人にちなんだ「パーカーポイント」なる評価方法でワインが採点されています。

仮に彼が、とても舌の肥えた、繊細な味を好む嗜好の持ち主だったのだとしたら、これほど影響力のある人物にはならなかったでしょう。

私たちは、突出した才能のある人こそ世間を変えるヒットメーカーになれるのだと考えるようなところがありますが、実は天才であることが邪魔になる場合だってあるかもしれないということです。

尖った感覚よりも、ごく一般的な大衆の気持ちにシンクロできるような平凡な感覚が生きる場合だって、大いにあるのです。

作品や商品に対する世間の評価も、成功者に求められる素養も、時代とともにどんどん変わっていくものです。

直木賞作家・九段理恵さんの例のように、AIを駆使して執筆するなど、ひと昔前では考えられないことでしたが、これからはどれだけデジタルツールを使いこなせるかが、作家に必要とされる能力の一つとなってくるのかもしれません。

そしてさらにそのなかでも、図抜けた文章をAIに書かせた人がヒットを飛ばすのか、もしくは、ごく一般的な人たちの心をつかむような内容を目指した人が一時代を築くのか、といったさまざまな可能性が考えられるわけで、正解はわからないのです。

あるいは日本は英語教育に非常に熱心で、自分の発する英語で海外の人とコミュニケーションがとれることに絶対的な価値を見出していますが、これも私からすれば疑問に感じます。

これだけ翻訳ツールが発達している今、それらに頼ることなく、自身で外国人と話をすることに躍起になるのは、まったくもって非合理的だと思うのです。英語力を身につけることに時間を割くのであれば、翻訳ツールにかける前の内容を充実させたほうが、よほど賢くなるのではないかと感じます。

母国語以外の言語を学ぶこと自体が脳に役立っている可能性もないとは言い切れませんが、国民の98%が英語しか話せないアメリカ人のなかから、あれだけノーベル賞受賞者が輩出されていることを考えると、個人的には効果はないと思っています。

これだけ世の中が変わるスピードが速く、昨日の正解が今日の正解とは限らないなかで、一つの答えに固執することは、おそらくもう時代に合っておらず、ナンセンスと言えるのではないでしょうか。

人生とは理屈通りにいかないことだらけですし、自分のなかの常識や理論が覆されることだって大いにあるものです。そのことを理解しているシニアは、余裕と風格を漂わせます。酸いも甘いも噛み分けた、知性のある人だと周囲の人の目に映るでしょう。

逆に言えば、「自分が絶対に正しい」「異論は認めない」と強硬に主張する人は、時代の流れに逆行するので、自身も生きづらくなりますし、頭がよいとも思われにくいということです。