「自分のために働きなさい」

「私は短大卒業後に東京・新宿にある食品も扱う専門商社に入社しました。最初は人事・総務を担当していました。その仕事は楽しく自分に向いている仕事だと思っていたのですが、2年後に突如、システム開発部に異動となったのです。希望を出したわけではなく、望まない部署だったので、目の前は真っ暗。会社を辞めるかどうか非常に悩みました」

当時は所沢市の自宅から新宿まで長距離通勤する会社員。一方、家業の「ぎょうざの満洲」店舗は10店ほど。先頭に立って働く社長の金子氏とのすれ違い生活は続いていた。そんな状況で、悩む娘に対し父がかけたのは「会社のためではなく、自分のために働きなさい」という言葉だった。

本社横にある川越工場
撮影=島崎信一
本社横にある川越工場

「その言葉の真意を問いただしたわけではないのですが、『仕事を与えられる』受け身の立場ではなく、能動的に働けば道が開けるという意味だったと今になって思います。当時の私の心にはスーッと入ってきて、自分のために働いてみて楽しくなればいいし、ダメなら仕方ないと思いました」

父の言葉通りにしてみると、不慣れだった情報システムの仕事を学ぶうちに興味が芽生え、徐々にスキルも上達した。当時は目新しかったエクセルを導入した時は各部署への教育係も務めたという。

充実していた会社員生活だったが結婚と同時に退職。家事に専念しようと思っていた矢先、父に「結婚式まで日があるなら、うちの会社を手伝って」と言われ、1986年に入社する。式までの腰掛け気分だったが仕事が面白くなり、そのまま在籍した。

「嫌われ役」でも屈しない

「入社して感じたのが、会社のシステム化の遅れです。前職の経験を生かして表計算ソフトや経理ソフトを導入するなど、社内業務をシステム化していきました」

「ウィンドウズ95」が日本に上陸したのが1995年。その9年前の話だ。当時は個人が使うパソコンはなくオフコン(オフィス用コンピュータ)の時代。多くの会社では「社内のOA化(Office Automation=定型業務の自動化)」が言われていた。

“20代半ばの社長の娘”の取り組みを好意的に受け止めた人ばかりではない。

「メニューレシピをグラム単位でマニュアル化した時、現場の調理人からは『俺たちは経験でやっているんだ!』と猛反発を受けました。職人のプライドを傷つけてしまったというところでしょう。

ですが、誰が調理してもお客さまにいつでもおいしい料理を提供するためには最低限“ぎょうざの満洲の味”を数値化し、味のバラつきをなくす改善が必要でした。また、食材の管理面や技術において彼らの業務負担を軽減することになる。

そうして現場の方たちに材料を計量する必要性を説いて回りました。創業者の父も調理部門にいた兄(利行氏、現・調理チーフ)も私を支持してくれたので、社内の意識は徐々に変わっていきました」

池野谷社長は「当時の私の役割は会社の課題解決係でした」と話す。「嫌われ役」を担った感もあるが、持ち前の明るさで「そこまで苦労は感じなかった」と語る。ベースにあるのは、本人の明るさと前向きな気持ち、なにより会社を思う気持ちだろう。