日本の研究がじり貧になった根本問題
日本の大学は高度成長の時期、新増設で忙しかった。それが落ち着くと、「改革」が始まった。まず「大綱化」。一般教育が、人文科学/社会科学/自然科学が各八単位で合計二四単位、などと決まっていたのが、ゆるめられた。社会の役に立たない一般教育は大学の判断でスリムにしなさい。
つぎに「法人化」。国立大学は政府機関だったのが、「国立大学法人」になった。学生定員にほぼ比例して「講座費」が下りてきていたのが、「運営費交付金」が配られる仕組みに変わった。交付金は年一%ずつ削られていく。その代わりに「競争的資金」を獲得しなさい。分厚い書類を書いて申請しなければならない。
貰えるかわからない資金の申請書類を書いて、私など、一年のうち一カ月はつぶしていたと思う。教員組織も国立大学は、学部でなく大学院に組織替えされた。
ごちゃごちゃいじり回したけれども、大学はむしろ元気がなくなった。論文の引用数も減り、研究費も減って、じり貧になっている。
大学を法人化したのなら、基本資産を持たせ、財政基盤を安定させないとだめだ。
文科省の配る競争的資金は、五年限りなど、時限のものが多くて、期限が終わったらサンセットしてしまう(それが嫌なら、大学独自の資金を用意しなければならない)。雇用した助教や研究員は、路頭に迷ってしまう。
「五人のうち一人が使いものになればいい」
そういう状況をみているから、研究者を志望する学生が減っている。文科省が大学を競争させ、言うことを聞いた大学にごほうびをあげる「一〇兆円ファンド」なるプランを進めている。さっさとやめ、半分は国立大学に分配し、半分は研究費にして配るのがよい。一般の人びとが大学に寄付するとそのぶん減税になる仕組みもつくるとよい。
日本の中央省庁は、改革するたびに、かえって膨張する。あらずもがなの組織や部署が多い。省庁の必要性を評価する仕組みがない。
省庁が膨張するのは、原資(税金)がタダで供給されるから。そのパフォーマンスをチェックする外部のものさし(企業の利潤や利益率にあたるもの)がないから。そして本人たちは、省庁が業界を監督するのは当たり前だと思っているから。リバタリアニズムのような考え方(政府に厳しい目を向ける)が、日本では稀薄である。
組織が膨張するのは、採用と昇進の仕組みに関係がある。省庁は縦割りで、部署が細かく分かれ、みなが排他的な職務と権限をもっている。しかも、デジタル庁とかこども家庭庁のようなわけのわからない役所がつぎつぎできて、業務の調整はますます煩雑になるばかりだ。
内情にくわしいひとから聞いた話。国家公務員の採用は、五人のうち一人が使いものになればいい。あとの四人は何をするんですか。一人が実際の仕事をして、あとの四人は、あちこちを飛び回って根回しをするのさ。