中内自身、駄菓子の販売を始めた頃の様子を後に次のように語っている。「『ばんじゅう』というガラスのケースに蓋をして、200グラムとか測って売ることを始めた…。それを計りすぎて、220~230グラムぐらい入れておったら、お客さんが、『そんなことをしたらあかん。教えてやる。180グラム入れて、そのあと足して、205グラムくらいになったところで、『まけときますわ』と言って、足して渡しなさい。引くと商売にならん』と教えてくれた。そういうことでいろいろ商売のこつを教えてくれましたな」(『中内功回想録』)
当初は、お客さんの注文を聞いてそれを袋に詰めて売っていたが、そこで、当時誰もあまり思いつかないちょっとした工夫を編み出した。駄菓子は、当時は量り売りが主。お客さんは、店の駄菓子を一つ二つつまみ、味見をして購入を決める。だが、そこで中内は考えた。「半透明のビニール袋に200グラム単位で駄菓子を詰めてホッチキスで封をする。それらを、あらかじめ積み上げておいて売る」というやり方だ。
その当時、味見して買うお客さんが多い中、「あらかじめ詰め物にして売る」というやり方は必ずしもうまいやり方ではない。だが、中内のほうには、そうしなければならない事情もあった。「量り売りで販売を始めたものの、一時にお客さんがどっとやってくるので、1日終わると腰を痛めるくらいに対応が大変だったこと」や、「お客さんの来るのはだいたい午後遅い時間なので、それまでの時間、店は暇だったので袋詰めでも」という事情だ。
だが、それでも、大きい紙に「もし味に不満があった場合には、袋とレシートを持ってきてください。そっくり全額返します」と書いて張り出した。苦し紛れではあったが、今流に言うと「プリパッケージ」と「セルフサービス」、そして「返品可」の商法に踏み込んだわけである。これが大阪のお客さんの心を捉えた。千林の店は押すな押すなの大盛況になった。
駄菓子をプリパッケージしてセルフサービスで販売する方法を中内は編み出した。そして、こうした試みを「商品化」と呼んだ。中内の優れていたのは、この概念を打ち立てたことにあったと、私は思う。たんにうまくいった、売れ行きが伸びたというにとどまらず、その経験を「商品化」という一つの抽象的な言葉に昇華させて理解したことにあったと思う。