抽象的な言葉に昇華させて経験を理解する
1958年の神戸市・三宮への出店を嚆矢とし、ダイエーはこれを切り札業態にして、驚くほどの急成長を遂げる。創業15年目の72年には三越を抜いて日本一の売上高に達する。
このSSDDS業態の成長ぶりを見たとき、アメリカの流通100年の歴史から帰納された「チェーンオペレーションの論理」に染まらなかったのがよかったということになる。翻って見れば、当時、このアメリカ発の論理に従ってチェーン展開を試みた企業は、ことごとく挫折する。そのことを思えば、中内の判断は際だつ。理論を理解しながらもその理論を乗り越えていったわけだが、それに対して、その当時日本経済新聞社の記者であった矢作敏行氏は「現実は理論を超える」と表現した。さて、中内は、いかにして理論を超える契機を得たのか、彼の著作や『中内功回想録』ほかの資料をたぐりよせてみよう。
中内が「主婦の店ダイエー大阪本店」を千林商店街の一角に出店したのは57年。京阪線千林駅前に、面積はわずか97m2。敷金350万円、開店資金50万円で、主として薬を扱う店として開店した。だが、その場所は、「それまで何の商売をしてもうまくいかず、持ち主もあきらめて、倉庫にでも、…と考えはじめていた…」(『ダイエーグループ35年の記録』16ページ)いわく付きの土地だった。
その地で、ダイエーは徹底した薬の安売りを目指した。だが、三軒隣の近所に同じように安売りで対抗する薬局があったため売り上げは伸び悩んだ。当時の店員の一人は、「毎日がヒグチとの戦争でした。とにかく、末角店長がたばこを一服して隣のヒグチへ行くと、もう値段が下がっている。毎日の目玉商品というのがあって、紙に書いて貼り出すんですが、朝、開店するときから戦争になるんです」と語る。「やっぱりあかんで。…。あの場所は何をやってもうまくいかんのや」という街の声も聞こえてきたという(『ダイエーグループ35年の記録』)。中内も困ってしまって、店に来るお客さんに「どういうものを買いたいか」と聞いたという。「化粧品を置け」とか「雑貨を置け」とか言われて、置いた。さらに「駄菓子も」と言われて、それも加えた。
わからないものだ。その駄菓子がヒットしたのだ。どれくらいヒットしたかというと、店の売り場の半分が駄菓子売り場になったという。しかし、準備万端で始めたわけではない。仕入れ先の鶴橋製菓の社長が言うには、「運搬は鶴橋から千林まで約8キロをリヤカー付き自転車2台で1日2回、1台あたり一斗缶を14~16本、荷台に積んで運んできました」というくらいに慌ただしいものだった。