「黒人差別反対」だから「私は正しい」
要するに、「私は多様性を尊重し、差別に反対している」から、「差別と関連する欧米社会に生きていても『私だけは』正しい」とアリバイを主張することができるわけだ。
弥助騒動を通してマイノリティー差別と闘う自己を演出する欧米研究者の例は、中世日本史専門家でカリフォルニア大学ロサンゼルス校においてグローバル学際日本研究のリーダーを務めるポーラ・カーティス氏やハーバード大学のデイビッド・ハウエル教授などだ。
カーティス氏は弥助問題を論じるオンラインのフォーラムで、「歴史を否定する多くのネトウヨ(neto uyo)は弥助(に関するエビデンス欠如の問題)を、(同じく証拠欠如の観点から)従軍慰安婦奴隷説の否定に走る(ハーバード大学の)ラムザイヤー教授の説と結びつけて論じており、『覚醒した欧米アカデミア』批判の補強材料にしている」と論じ、ハウエル教授もカーティス氏の主張を強く支持している。
このようにして、「差別的かつ前時代的な日本人ネトウヨを正す英雄的な欧米人研究者」という言説の中で、「弥助=侍」説のエビデンス欠如という学問上の問題が、政治的正しさを基準とするマイノリティー差別問題にすり替えられている。
そんな欧米社会にとって、戦国日本という「遅れた社会」で黒人が活躍する物語を作ったり、「弥助=侍」説という「ポリコレ的に正しい言説」を流布したりする行為は、「黒人の活躍を支援する」行為として、「反黒人差別のスタンス」に基づくと認識されやすい。
よって、「戦国時代の日本でも黒人奴隷が流行していた」という説も、「黒人を差別していたのは欧米社会だけではない」という主張につながり、欧米社会にとって特別な魅力を持つ。
欧米社会の「オリエンタリズム」にほかならない
要するに欧米アカデミズム界隈の人にとって、「弥助=侍」説を支持することは、「自分は偏見や差別と闘っている」というエクスキューズとして都合のいいスタンスなわけだ。
むしろ、「黒人差別に反対している欧米社会」こそ、「弥助=侍説を否定する遅れた日本社会」よりリベラルで良い社会だ、という考えさえ透けて見える。
ただ、欧米社会以外を劣った社会と見なすのは、エドワード・W・サイードが「オリエンタリズム」と呼び痛烈に批判した、「西洋人によって東洋が研究・記述・支配される思想」にほかならない。「弥助=侍」説は、「新たなオリエンタリズム(neo-Orientalism)」の側面を持つ。
こうした欧米アカデミズム界隈のポリコレ言説を無批判に受け入れる日本の「自称リベラル」知識人は、実は日本をはじめとする欧米以外の社会に対する差別的な見方に加担しているのかもしれない。
2024年は欧米の選挙イヤーであり、「開かれた国境」や移民の無制限な受容、多人種・多文化主義などが重要な争点となっている。
欧米の学界やエンタメ界に「弥助=侍」説への支持が広まりつつあるのは、こうした「政治的文脈」も影響している可能性すらある。
そうした微妙で複雑な問題が絡む中でも、「弥助=侍」説が事実だと主張するなら、ロックリー准教授にはより具体的な証拠を提示することが求められるだろう。