なぜ「弥助=侍」説を信じてしまうのか
だが、ロックリー氏の学説には根拠が乏しいのも事実であり、現段階で史実とするのは難しい。
にもかかわらず、多くの欧米知識人や、あまつさえ日本人までも「弥助=侍」説に飛びついてしまうのはなぜなのだろうか。
英国の著名な歴史家であるE・H・カーは、「歴史とは、現在と過去のあいだの終わりのない対話である」「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになる」と看破した。
つまり、E・H・カーにとっての「歴史」とは、後世の視点によって再構築されたものという面がある、ということだ。
この意見に基づいて考えると、ロックリー准教授の「弥助=侍」説には、やはり後世の視点が濃厚に反映されている、と見ていいだろう。
「ポリコレ知識人」にとって都合のいい説だった
欧米の大学を中心としたアカデミズム界隈では、「人種・文化は多様であるべきだ」といった「ポリコレ言説」が流行・蔓延している。
「弥助=侍」説は、そうしたアカデミズム界隈の「ポリコレ言説」にとって都合のいい学説だった、とは考えられないだろうか。
まず、欧米社会にとって「弥助=侍」説は特別な意味を持つ。言わずもがな、現代欧米社会において黒人たちは差別・迫害されている。
それは取りも直さず、近代以降の欧米社会が黒人差別や植民地支配をもとに成り立っていた、という事実と関連している。
そんな欧米社会において、特にアカデミズム界隈の知識人たちが、自分の正当性を主張する材料として、黒人差別問題が使われることがある。