日航はボーイング社を特別扱いしていた

日航はボーイング社を特別扱いした。整備部門には「ボーイングは神様だ」と高く評価する声まであった。それだけボーイング社を信用し、頼りにしていたわけだった。

しかし、厳しい見方をすれば日航の妄信だった。

修理ミスさえなければ、JA8119号機は正常な機体に整備されて日航の手もとに戻り、その後、不具合(調子や状態の良くないこと)や故障が見つかったとしてもさらなる整備・修理によって安全飛行を重ねることができるはずだった。

航空機は地上に降りるまで、あるいは次の定期点検まで、安全運航が可能なように設計されている。これがフェイル・セーフ(多重安全構造)とリダンダンシー(冗長性、余剰安全装備)による安全性の担保である。

しかし、後部圧力隔壁の修理で中継ぎ板を2枚に切断し、それぞれ接続部に差し込んでリベットで留めるという強度を軽視したボーイング社の作業によって隔壁のフェイル・セーフもハイドロ・システム(油圧装置)のリダンダンシーも役に立たなくなった。

結果的に安全運航を無視したことになる。

JALはなぜボーイング社を訴えられなかったのか(墜落した日本航空123便JA8119号機、B747‐SRの同型機、1977年10月21日)
写真=共同通信社
JALはなぜボーイング社を訴えられなかったのか(墜落した日本航空123便JA8119号機、B747‐SRの同型機、1977年10月21日)

ボーイング社とアメリカ政府にものを言うべきだった

日航や運輸省、事故調、群馬県警、検察庁、それに日本政府はもっとボーイング社とアメリカ政府に対し、ものを言うべきだったのではないか。

墜落事故から3カ月後の11月初旬のことである。

木枯らしが吹き始めていた。大手町など東京駅周辺のビジネス街でも、街路樹の黄色く染まったイチョウの葉がビルの谷間の路面に落ち、赤や茶に紅葉した他の落ち葉といっしょに強い風に吹かれて高く舞っていた。

日差しが雲に隠れると、寒かった。近くのビルの飲食店街まで昼休みで食事に出た帰りなのだろう。

上着の襟を立てたサラリーマンやカーディガンを羽織ったOLの姿が多く見られた。

この日、東京駅前の東京ビルヂング(旧丸ビル)の日本航空本社で行われた役員会議の後、松尾芳郎(事故当時、日航取締役の整備本部副本部長で、日航社内で事故原因の調査を担当した最高責任者)は社長室に立ち寄り、社長の高木養根たかぎやすもとに面会している。