天皇になれる血筋だったのに
この年の11月25日、彰子は第三皇子の敦良親王を出産。道長にとって、敦康の存在はますます邪魔になった。道長の望みは、外孫の敦成親王が一刻も早く即位することだったが、そのためには一条天皇の存在も邪魔だった。
一条天皇はおそらく、最初に第一皇子である敦康親王を立太子させ、冷泉天皇系の親王を一人はさんで、敦成親王や敦良親王を即位させる腹積もりだった。敦康親王を養育してきた彰子も同じ考えだった。
だが、それでは外孫の敦成親王の即位が遅れ、道長は外祖父として摂政になるチャンスを逸するかもしれない。寛弘8年(1011)5月26日、道長は一条天皇の譲位を発議し、6月2日、春宮(皇太子)の居貞親王に即位を要請。6月13日、三条天皇として即位すると、同時に敦成親王が春宮(皇太子)になった。
平安時代に皇后(中宮)が産んだ第一皇子で皇太子になれなかったのは、敦康親王を除けば白河天皇の皇子で、4歳で早世した敦文だけ。敦康親王は道長のせいで、例外中の例外に追いやられたのである。
その後は政争から離れて風雅の道を生きた敦康親王。そのまま長生きできれば、それはそれで幸福だったかもしれないが、弟の敦成親王が後一条天皇として即位して2年余り、寛仁2年(1018)12月に発病し、わずか数え20歳でこの世を去った。
「光る君へ」では、「人格者」の道長は敦康親王をどのように捨て去るのか、見ものである。