置き去りのままの彰子
その後も、道長は敦康親王を後見し続け、寛弘2年(1005)には、道長にとって不利ともいえる状況が生じた。中関白家の伊周や隆家、すなわち定子の兄弟を復権させる流れになったのである。
一条天皇にすれば、敦康親王の外戚である彼らを、それにふさわしい地位にしておきたい。一方、道長も、かつての政敵に恨まれたままにはしておきたくなかったのだろう。
隆家はすでに、流罪になる前の権中納言に復帰していたが、伊周も「大臣の下、大納言の上」という席次になった。もっとも、藤原実資の『小右記』によれば、昇殿を許された伊周に対する公卿たちの反応は冷ややかだったそうだが。
また、翌寛弘3年(1006)3月には、一条天皇が敦康と対面する儀式に加え、定子が産んだ第一皇女である脩子内親王の裳着(貴族の女子の元服)も行われた。それらは道長の後見のもとに行われたとはいえ、中関白家が復権することへの不安を、道長は拭えなかったと思われる。
さらには、このころ一条の寵愛は、彰子より先に入内していた藤原顕光の娘、元子に向かって、相変わらず彰子は置き去りのままだった。
これで敦康親王は無用の存在になった
寛弘4年(1007)8月、道長は奈良県吉野郡の金峯山に詣でた。そこは山岳修験道の聖地で、道長は自身の極楽浄土への往生とともに、彰子の懐妊を祈願したと考えられる。
そして、この年の12月ごろ、彰子は結婚から8年を経てついに懐妊した。金峯山詣での功徳だろうか。いや、そこまで必死な道長を見て、一条天皇としても彰子に懐妊してもらうしかなくなった、といったほうが正確だろう。
しかし、知られれば呪詛されかねないので、懐妊は寛弘5年(1008)3月になっても隠されていた。その後、出産のために彰子が帰った土御門邸では、連日、絶えることのない読経の声が重ねられた末、9月11日、彰子はのちの後一条天皇である敦成親王を出産した。
道長は『小右記』によれば、言い表せないほど大よろこびで、その後は、敦康親王という「保険」はもう要らなくなった。倉本一宏氏はこう書く。「これで敦康は、道長にとってまったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となったのである。同様、伊周をはじめとする中関白家の没落も決定的となった。そればかりか、外孫を早く立太子させたいという道長の願望によって、やがて一条との関係も微妙なものになる」(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。
翌寛弘6年(1009)、伊周の母方の関係者が、道長や彰子、敦成親王への呪詛を企てたとして逮捕され、伊周も参内を停止させられた。呪詛の真偽のほどはともかく、ことは道長の意のままに進んでいった。