「定子の死」で頭を悩ませる道長
定子が皇子を産んだのを受け、道長は後宮における彰子の価値を維持するために、彰子の立后(正式に皇后にすること)を急ぎ、強引に「一帝二后」を実現させてしまう。
だが、長保2年(1000)2月10日、彰子が立后の準備をするために実家の土御門邸に下がると、翌日には早速、一条は定子を内裏に呼び寄せた。その結果、ふたたび妊娠したものの、これが命とりになる。定子は12月15日、第二皇女の媄子を出産したが、後産が下りず、翌朝に亡くなってしまう。
敦康親王はこうして生母を失い、叔父の伊周らもかつての地位になかったため、後見がない状況に置かれることになった。
とはいえ、一条天皇の父であった円融天皇の皇統の唯一の皇子である。数え12歳で入内した彰子がまだ若すぎて、懐妊の可能性がほとんどない以上、道長は不本意ながら敦康親王を後見するしかなかった。
また、亡き定子は一条天皇の唯一の皇子の母であり、皇子はやがて即位する可能性が高い。そうした状況を受け、定子は死後に同情を集め、彼女を「国母」と呼ぶ向きまで現れた。彰子を盛り立てたい道長にとって、定子は死んでなお、悩ましい存在になったのである。
今度は定子の妹を寵愛した一条天皇
一方、一条天皇はといえば、敦康親王に愛情を注ぎつつ、定子への追憶も激しかったが、それだけで終わらなかった。道長の長兄であった道隆の四女、すなわち定子の末妹で敦康親王の養育をまかされていた御匣殿に、一条の寵愛が向かったのだ。入内さえしていなかった御匣殿だが、おそらく、天皇は彼女に定子の面影を見たのだろう。
これに対し、道長は対策を講じている。敦康親王を御匣殿から切り離し、彰子に育てさせることにしたのだ。道長としては考え抜いた作戦で、たんに一条と御匣殿を切り離すだけにとどまらなかった。
というのは、敦康が彰子のもとにいれば、一条は敦康への会いたさから彰子のもとを訪れる機会が増え、彰子が皇子を産む可能性が高まる。また、彰子に皇子が生まれず、敦康が即位することになっても、彰子が養母で道長は養祖父という関係をつくれれば、権力を維持できる。そんなねらいがあったと考えられる。
しかし、長保4年(1002)に御匣殿は懐妊しながら、6月3日には亡くなってしまった。かといって、一条天皇の目は、彰子には向かないままだった。