そもそも三淵嘉子は本当に裁判官向きの人だったのか

ちなみに、ドラマでは戦前に判事の桂場(松山ケンイチ)が寅子を「裁判官に向いているのかもしれない」と思ったようでしたが、その時点では女性は裁判官になれませんでした。あのとき、桂場は、寅子が権力や圧力に負けない強さと公平さを持っていると見たのだと思います。

「どういう人が裁判官に向いているか」というのは難しい問題です。ただ、一つ言えるのは、裁判官は記録をたくさん読まなければならず、公平でもなければいけないということ。医療過誤の裁判もあれば交通事故も賃貸借も離婚もあるし、刑事事件を担当することもあって、その都度、その分野のことを理解しなくてはならず、勉強しなきゃいけないんですね。つまり、勤勉でなければ向かない。その点、ドラマの寅子はたしかに向いています。

実は、嘉子さんの人となりを調べていくと、そこまで裁判官向きという印象はないんです。頭脳明晰な方ですし、実績を残していますが……。息子さんの和田芳武さんはこうも言っていました。

「母はもともと、勉強より遊びが好きです。仕事は『やらなければならない』という使命感でやっていました。好きではなかったです」
(『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』日本評論社)
三渕嘉子・日本婦人法律家協会会長、1979年12月14日
写真提供=共同通信社
三渕嘉子・日本婦人法律家協会会長、1979年12月14日

学究肌ではなかったが人が好きで、非行少年たちのことも信じた

法律家の中にはたくさん文献を読み、専門書を書くような勉強家がいるものです。嘉子さんが再婚した三淵乾太郞さんはそういう学究肌のタイプ。それに比べると、嘉子さんはそこまで特別に勉強好きというほうではないけれども、仕事はガンガンしたらしいですよ。家庭裁判所では、累計5000人もの少年少女と実際に向き合ったわけですから。

学究肌というより現場主義だし、人間好きだったと聞きます。どんな少年少女でも、話をすると、どこか良いところは必ずあるし、「きっと良い方向に行ってくれる」と信じていたそうです。

実際には何度も非行を繰り返す人も残念ながらいるけれど、「いつかは良い方向に行く」と信じて接するというのが信念なんですね。人間に対して、性善説的な見方をする、人間に対する期待や愛情が根底にある方でした。

嘉子さんは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が望んだ女性解放の影響を受けた「日本婦人法律家協会」の設立(1950年)にも関わっていました。最初は少人数から始まりましたが、だんだん広がってきて、弁護士や裁判官、一部研究所や法学部の先生なども所属する団体になっています(現在の名称は「日本女性法律家協会」)。

私と司法修習生の同期だった女性は、嘉子さんの最後のキャリアとなる横浜家庭裁判所で所長としての嘉子さんを見ていますが、そのときは職員に対し「みんなどう思う?」と意見をいろいろ聞いて、すごく気を遣っていたそうです。しかし、心を許している身内や仲間の前では素で、わがままなところも見せられたんでしょうね。そんな偉大な先駆者としての業績とのギャップや人間らしさに多くの人が惹かれたのだと思います。

(取材・文=田幸和歌子)
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