伸び悩む部下の滞りを解消できる上司
江戸時代中期の米沢藩の大名で名君といわれた上杉鷹山も不遇な人物を重用し、改革を断行したことで知られています。
優等生というのは、何事もそつなくできたり、意識も高かったりすることから、上司が何もしなくてもタスクをうまくこなしてしまいます。そのため「部下の手柄は自分の手柄」のように感じることがうれしい上司ならば、できる部下は大歓迎といったところでしょう。
ほんの少しだけヒントをいえば、何もかもわかってくれることもあります。難易度の高いプロジェクトや最高峰を目指す際には不可欠な存在ともいえるでしょう。
その代わり、少しでもよい条件の職場があったり、やりがいの感じられるポジションが与えられたりしようものなら、取り込み中のタスクを放棄してもそちらに移ってしまうということもあります。
「現在の仕事は面白いと思いますが、よりやりがいがあって、条件もよい仕事が見つかりました」といわれて、去っていくことも十分、考えられるのです。
もっといえば、そもそもそれだけの人材はなかなか集められないかもしれません。
「優秀な部下がいればなんとかなるのに」と思っても、それこそ現実離れした希望かもしれないのです。
けれども、優等生ではない人材の場合、むしろ「その場に居場所を見つけないといけない」と考え、必死になることも少なくありません。そこに効果的なアドバイスやサポートが加われば、大化けする可能性も出てくるのです。
先に述べた野村克也や上杉鷹山といった優秀な上司はそうした「才能ある劣等生」を見逃したりはしませんでした。彼らが大化けすれば、生来の優等生以上の大戦力となることを知っていたのでしょう。
劣等生の滞りをいかに解消するか――これも上司の大切な役割といっていいと思うのです。
完璧な上司から完璧な部下は生まれない
できない部下でも生まれ変わることができます。では、上司はどうなのでしょうか。
こちらも同じことがいえます。できる上司、完璧な上司というのは、実は部下としては少々やりにくいところがあるのです。
もちろん、優秀な部下には優秀な上司が必要という面もあります。しかし、優秀な上司に求められる条件というのは、意外なことに「その人が優秀である」ということとはちょっと違うのです。
メジャーリーガーとして不世出の大選手となった大谷翔平選手の最初の上司であった栗山英樹氏は監督としては名監督でしょう。
でも、選手としての成績は失礼ながら「大谷選手に匹敵するほど秀でていた」とは言い難いと思います。
将棋界に革命を起こした藤井聡太八冠の師匠である杉本昌隆八段もタイトル戦の挑戦などの棋歴はありません。「トンビが鷹を生む」といっていいかどうかわかりませんが、上司と部下との関係としてとらえると大きなギャップがあります。
しかし、2人とも、上司、あるいは指導者としては共通点があります。それはともに2人の天才に「自由にやらせた」ということです。
栗山氏は大谷選手の二刀流をあっさり認めました。栗山氏以上に実績のある多くの球界OBが否定的で、おそらく栗山氏でなければ誰も認めなかったでしょう。
杉本八段の場合、将棋は「振り飛車」を得意としています。関連の専門書も著しています。しかし、藤井八冠の得意戦法といえば「角換わり腰掛け銀」です。師匠とは棋風もまったく違うのです。