人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。本田技研工業(ホンダ)の創業者・本田宗一郎は、若いころは芸者遊びに興じ、晩年は頻繁に酒場に通った。ライターの栗下直也さんは「その遊び方にこそ、名経営者・本田宗一郎の仕事哲学が詰まっている」という――。

本田宗一郎が「会社で一番大事」と語ったこと

人間は一面では語れない。それは経営者も同じだ。在任中の功績の「A面」だけでなく、独自の価値観や知られざる人柄など「B面」がある。むしろ、経営者のB面こそが企業文化を形作っているといってもいいだろう。本連載では経営者のB面に光を当て、令和のビジネスにも通じるヒントを探る。

自動車各社は円安を追い風に過去最高益を軒並み叩き出す一方、トヨタ自動車など5社では、車の「型式指定」に関する認証不正が見つかった。

「良品に国境無し」と語ったのはホンダ創業者の本田宗一郎だが、そのホンダも5社に含まれていた。本田がもし生きていたならば、何というだろうか。

本田技研工業社長、最高顧問、国民健康会議座長、東商副会頭、勲一等受章=1972(昭和47)年11月7日撮影
写真提供=共同通信社
本田技研工業社長、最高顧問、国民健康会議座長、東商副会頭、勲一等受章=1972(昭和47)年11月7日撮影

本田宗一郎といえば自動車メーカーのホンダの創業者であり、松下幸之助と並ぶ戦後日本が生んだ最も高名な経済人でもある。自動車業界でホンダは「技術のホンダ」とも呼ばれるが、これは小卒のたたき上げの技術者であった本田のイメージも影響しているだろう。

だが、本田を「技術の人」と捉えてしまうと彼の凄さを見誤る。本田は「会社で一番大事にしているのは技術ではない」といってはばからなかった。「技能よりもアイデアをいかにだすかにもっていかなければならない」と売るためのアイデアを重視した。

「物作り」ではなく「いかに物を売るか」

いかにつくるかではなく、いかに売るか。

令和の今では当たり前に思えるだろうが、昭和30年代にこれを看破していた。「つくれば物が売れる」時代に、物を売るための方法を徹底的に考えていた。

「つまり、それってマーケティングでしょ?」と指摘されそうだが、本田のマーケティングとみなさんのイメージするマーケティングは違うかもしれない。彼はデータをあまり重視しなかったことでも知られる。専門家がなぜ素人に意見を聞かなければいけないのだといってはばからなかった。

「僕は、市場調査を、過去の足跡をたしかめること、自分の意見を大勢の社員に納得させる場合の手段として使うこと以外には考えていない」

市場データだけに執着する令和の管理職には耳が痛い言葉かもしれない。

では、本田はどのようにして売れるアイデアのヒントを探ったのか。それは結果的には「遊び」によるものだった。彼の言葉を要約すると、以下のようになる。

データとにらめっこしているのではなく、遊ぶことが人間を知ることになり、まわりまわって商売にもなる。そのためには、自分を型にはめず、行動する――。