女房たちが「どの面下げて戻ってきたの?」

「ドラマ」に対して「史実」との違いを指摘しすぎるのも野暮と思いつつも、話を円滑に進めるために、若干記しておきたい。

行成の意見を聞き、道長の主導で定子を職の御曹司に移した、という記録はなく、そこは脚本家の創作である。史料から判断するかぎり、一条天皇が定子を内裏に移す準備段階として、まずは職の御曹司に移したものと思われる。

それが決行されたのは、長徳3年(997)6月22日の夜のことだった。藤原実資は『小右記』に「今夜、中宮、職の宮司に参り給ふ。天下甘心せず。……はなはだ稀有なことなり(今夜、中宮定子様は、中宮職の役所である御曹司に転居なさる。宮中ではだれもが甘く見てはいない。……ありえないことだ)」と書いている。

ドラマで実資が、「前代未聞、空前絶後、世に試しなし!」と怒りをにじませ、女房たちが「どの面下げて戻ってきたの?」と囁き合った場面は、そのときの宮中の空気をよく表している。ただし、解釈が過ぎたと思われる場面もあった。

ドラマでは、一条天皇は内裏から近い職の御曹司に足しげく通うようになったが、それは違うのではないだろうか。それから1年半ほど経った長保元年(999)正月、一条はついに定子を内裏に戻している。その動機は、定子に皇子を産ませることであった。定子が職の御曹司に留め置かれたままでは「妊活」ができないので、どうしても内裏に戻したかったのである。

映画「バービー」の舞台あいさつに登壇した高畑充希さん=2023年8月2日、東京都千代田区
写真=共同通信社
映画「バービー」の舞台あいさつに登壇した高畑充希さん=2023年8月2日、東京都千代田区

友人であり姉であり母親だった

だが、いずれにしても、一条天皇が定子にこだわり続け、出家した身からもう一度、もとの立場に戻そうと必死だったことに変わりはない。なぜ、一条はこれほどまでに定子を寵愛したのだろうか。

道長の長兄、藤原道隆の長女である定子が入内したのは、正暦元年(990)正月25日のことだった。一条天皇はその20日前の正月5日に元服していたとはいえ、まだ数え11歳で、満年齢では9歳と半年にすぎなかった。つまり、いまの小学校3年生である。入内した定子は3歳年上だが、所詮は数え14歳であった。

なぜ「子供同士」が結婚したかといえば、ひとえに、一刻も早く自分の孫を天皇にし、みずからは外祖父として権力を盤石にしたい道隆の意向によるものだった。

一条天皇が定子を異常なまでに寵愛したのは、こうして幼くして結婚して以来、定子が妻であるだけでなく、友だち、姉代わり、母親代わりという役割を果たして、一条の心中を独占してきたから、という事情が考えられる。

それに加えて、もうひとつ指摘できることがある。道隆の妻、すなわち定子の母の高階貴子たかしなのたかこはかなりの才媛であったと伝わるのである。