困難な状況を迎えるたびに体調を崩す

長徳2年(996)12月16日、中宮定子(高畑充希)は出家した状態のまま、一条天皇(塩野瑛久)の第一皇女である脩子を出産する。

それから4カ月経った長徳3年(997)3月25日、一条天皇の母である東三条院詮子(吉田羊)の病気が回復に向かわないため、天皇は平癒を願って大規模な恩赦を実施した。このとき、前年に花山法皇を射かけるなどして流罪になっていた定子の兄弟、伊周(三浦翔平)と隆家(竜宮涼)も赦免され、都に戻ることを許されている。

そのころ道長は病気になった。病気の記録としては、およそ9年ぶりになる。藤原行成(渡辺大知)の日記である『権記』には、6月8日、32歳だった道長が夜中に発病し、一条天皇は心配して、翌朝、天皇の秘書官長にあたる蔵人頭だった行成を、見舞いに向かわせたと記されている。

道長はそれ以降、困難な状況を迎えるたびに体調を崩す。このときも、長兄である道隆の息子、伊周と隆家が都に戻ったのを受け、道隆を祖とする中関白家が復活する可能性を考えているうちに、具合が悪くなったのかもしれない。

藤原家の家系図(一部)
『大日本人名辞書 訂正増補版』(経済雑誌社)を元に編集部作成

体調が悪すぎて「出家したい」

次に倒れたのは、同じ長徳3年(997)の7月26日。前回倒れてから、1カ月半ほどしか経っていない。病名は「瘧病」、すなわち現代のマラリアだったとされる。

道長は7月5日に除目(諸官職を任じる儀式)を行い、藤原公季を内大臣に据えていた。こうして、道長(左大臣)、顕光(右大臣)、公季(内大臣)の3人で大臣職を固め、伊周が復帰しても上級の公卿になれないようにしたわけだが、おそらく、その間は激務をこなしたものと想像される。

このため免疫力が弱ったところで、感染症に襲われたのかもしれない。とはいえ、休んではいられないため、行成の『権記』によれば、自邸の簾の向こうから政務についての指示を出したという。

しかし、このあたりはまだ序の口で、ひどい病は年が明けて長徳4年(998)3月に道長を見舞った。それは腰病だった。

『権記』の記述にしたがうと、3月3日、一条天皇の命を受けて蔵人頭の行成が見舞いに訪れると、道長は「出家の本懐を遂げたい」と伝えたという。だが、内裏に戻った行成が一条天皇に道長の意思を伝えたところ、天皇は却下した。しかし、道長はあきらめず、3月5日にふたたび、さらには3月12日にも、つまり3度にわたって出家をしたい旨を訴えている。