フォームを正すために思いついた「片足上げ」

ジャイアンツは、合気道の師範でもある荒川博というバッティング・コーチに、王の欠点を克服させた。ぽっちゃり体形で丸顔の荒川は、毎朝、自分の合気道道場で、王のフォーム改造に着手し、きわめて異例の矯正法を思いついた。

「王の欠点は、踏み出しが早すぎることと、体を開いてしまうことだね」

と荒川コーチ。

狭い場所で、体の中心に意識を集中させるために、一本足打法を思いついた。阪神タイガースの別当薫の打ち方を見ていて、ヒントを得たんだ。彼もバットを振る前のどこかの時点で、片足を上げていた。しかし王に対しては、もっと腿を持ち上げるように指導した。投球を待つ間、フラミンゴみたいに片足で立て、とね。

最初、王にはそれがとても難しそうだったよ。二人で何度も何度も練習を重ねた。少しずつよくなってはきたが、試合になると怖がって、長い間、実行できなかった。

王貞治と荒川博。荒川の自宅にて。
王貞治と荒川博。荒川の自宅にて。(写真=ベースボール・マガジン社『青春ホームラン王 実録小説王貞治』1963年7月25日/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons

やがて、試すときがきた。1962年7月1日、川崎球場でおこなわれた、対大洋ホエールズ戦だ。ジャイアンツはスランプの真っただ中で、6連敗して、順位も落ち込んでいた。王のせいだという声が高かった。打率は2割5分、ホームランは9本と振るわず、三振でせっかくのチャンスをふいにすることも、少なくなかったからだ。

「三振王」という汚名が一夜で消えた

王という名前は、日本語で「King」の意味である。スポーツ紙は彼を、「Strikeout King」の意味の「三振王」と名付け、悪しざまに扱い始めた。

ジャイアンツの川上哲治監督も、王はもう頭打ちだ、とあきらめかけていた。後がなくなった王は、新しい打法を試合で実践してみるチャンスは、今しかない、と覚悟を決めた。

王はバッターボックスに足を踏み入れた。相手はホエールズの筋金入りの右腕投手、稲川誠だ。最初の打席で、右の腿を思い切り持ち上げて、そのまま静止して、待った。

マウンド上の稲川は、はたと考えた。

「なんだありゃ? やつがあんなフォームで、俺の球を打ったことはないぞ」

稲川は振りかぶり、剛速球を投げた。

すると王は、ライト方向にライナーを放った。

シングルヒットだ。

荒川コーチはサイドラインの外から、父親のように誇らしげに見守った。

第2打席では、稲川のストレートを、ライトスタンドに叩き込んでみせた。

荒川は飛び上がって喜んだ。その晩の王は、安打3本で締めくくった。のちに荒川は王にこう言った。

「あれでいいんだ。やっと飲み込んだな。もう後戻りすることはないさ」