「長い刀で紙を切る」練習も

確かにそれ以降、王は上り調子になった。奇妙な新打法で、7月にはホームランを10本、その後さらに20本、最終的には38本を放って、その年のセ・リーグのホームラン王に輝いている。

王は荒川道場での朝練習に、一層力を入れた。荒川が跪いて、正面から見守る前で、数時間かけて素振りをした。

荒川はただ見ているだけではなく、バットが空を切る音に、耳を澄ました。完璧なスイングのときの、「ブーン」という音を求めた。天井から紙を垂らし、サムライが持つような長い刀を振りかざして、スパッと切る練習も始めた。手首と腕を鍛えるためだ。

ジャイアンツの広岡達朗遊撃手は、こうした血のにじむような練習を目の当たりにし、王の努力に驚きを隠せなかった。

「かなり難しいことをやっていたよ」

王のチームメイトの広岡が語る。

「とくに、あの刀さばき。ブーンと振ると、空気が動いて、紙を押しのけてしまう。紙を切るためには、しっかり命中させなければならない。そのためには手首の力が相当必要だ」

王に言わせれば、

「われわれがやろうとしたのは、武道の原則をバッティングに応用することでした」

投手がどれだけ焦らしても10秒間静止できる

翌シーズン、王はホームランを40本放ち、2年連続でホームラン王に。打率は3割5厘に上がった。

王をしとめるのが、ますます難しくなってきた。投手陣はあの手この手を試したが、無駄だった。

偉大なる400勝投手、金田正一もその一人。金田は、自分の155キロのストレートと、大きく曲がるカーヴは、誰も打てない、と豪語していたが、王に対しては戦略を変えざるを得なかった。タイミングを外すために、つっかえながら投げてみたが、これも効果なし。

この頃になると、王はバッターボックスで、右ひざを持ち上げたまま、丸々10秒間、静止できるようになっていた。もっとも長く焦じらすタイプのピッチャーでも、これでは手の打ちようがなかった。

金田は悔しそうに語った。

「王はどんな球種でも、どんなスピードでも打てる。あの集中力を切らすのが難しい」

ドラゴンズの右腕投手、小川健太郎は、やけくそで、腕を背中から繰り出す「背面投げ」を試みたが、ほかの投手と同様、失敗に終わっている。

しかし王にとっては、まだほんの序の口だった。

3年連続首位打者、2年連続三冠王という大偉業

1964年には、シーズン55本塁打という日本記録を打ち立て、打率は3割2分。13年連続最多本塁打という、前例のない記録の、これが3年目だった。さらに1968年から、3割2分6厘、3割4分5厘、3割2分5厘と、3年連続で首位打者に。1973年と74年には、立て続けに三冠王。73年には、3割5分5厘、51本塁打、114打点を記録。これがおそらく彼のベストシーズンだろう。

阪神タイガースの村山実監督は、ぼそりとこうつぶやいた。

「彼に打順が回るたびに、頭痛がしたよ。見ちゃいられなかった」

引退するまでの記録は、ホームラン街道を独走しながら、打点13回、首位打者5回、MVP9回。1977年9月3日には、現役選手として頂点に達した。756号ホームランを放って、ハンク・アーロンのメジャーリーグ生涯記録を抜いたのだ。

とはいえ、ON時代を通じて、王は“もっとも注目された選手”ではなかった。その名誉はいつも、チームメイトのクリーンナップ、長嶋のものだった。好きな選手は、という統計でも、ダントツの長嶋にはるか及ばず、王はいつも2位に終わっている。野球のあらゆる成績では、王の方が上回っているにもかかわらずだ。

これには数々の理由があった。

まず、長嶋の方が年長であること。日本社会では、これが重要な要素になる。長嶋は立教大学出身で、1958年に新人王をとり、翌年から3シーズン続けて首位打者に輝いた。その間、王はというと、高卒で、まだ打撃フォームが定まらずに、悪戦苦闘していた。

天覧試合でサヨナラホームランをかっ飛ばす劇場型

長嶋はカリスマ的で、元気いっぱいで、観客にウケる。三振しても、見栄えがいい。ストライクゾーンを外れた球に、大きくバットを泳がして、空振りするシーンが有名だが、バットの振りがとても速いので、ヘルメットをよく飛ばした。フィールドでも観客を喜ばせる。並みのゴロを捕球しても、どういうわけかナイスプレーに見せてしまう、そんな三塁手だった。

ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳『新東京アウトサイダーズ』(角川新書)
ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳『新東京アウトサイダーズ』(角川新書)

一方の王は、どことなく活気がない。にもかかわらず、片足を上げるユニークな打法で、大量のホームランを打つ。ほとんど故障のない精巧な機械のように、自身を改造してみせた。しかし、ある種のわくわく感に乏しい。シャイで、ストイックで、一部のファンに言わせれば、やや機械的すぎる。

おまけに長嶋は、試合をドラマチックにする天賦の才がある。1959年に、裕仁天皇が公式のプロ野球を初めて観に来た、いわゆる天覧試合で、彼は「サヨナラホームラン」をかっ飛ばした。この快挙は、その後半世紀間、吐き気がするほど何度も、ハイライトシーンで再生されたものだ。

王は王で、1964年には一試合にホームラン4本、1972年には7試合連続ホーマーという記録を打ち立てたが、この成績を覚えているファンは、はるかに少ない。王が単独でスポットライトを浴びるようになり、アメリカでも注目されるようになったのは、1974年に長嶋が引退し、王がハンク・アーロンの記録に近づいてからだ。

長嶋が“チャンスに強い男”と言われた本当の理由

皮肉なことに、3番打者の王のおかげで、クリーンナップの長嶋がよく打てたと言える。王は生真面目だから、ストライクゾーンを外れた投球には、決してバットを振らなかった。一試合に平均1回はフォアボールを選んでいる。

接近戦の9回ともなると、ランナーがいる場面でも、王はしばしばフォアボールで出塁した。投手陣が彼と勝負するのを怖がったからだ。

ここで長嶋が、勝ち越しの安打をねらって、バッターボックスにすっくと立つ。ピッチャーは勝負するしかない。案の定、長嶋はスコーンとヒットを放つ。

かくして長嶋は、“チャンスに強い男”という、不動の評価をものにした。じつは必ずしもそうではなく、王のおかげで、たくさんのチャンスが転がり込んだだけなのだ。

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