「チャンスを与える」よりも「屈辱感を味わわせる」

足立先生の時もそうでしたけれど、「じゃあ、あとは自力で切り拓いてごらん」というチャンスを上の人が若い人に与えるということが実際によくありました。それはある意味では「限られた時間内に、自分にできることをどれくらい適切に説明できるか」という試験を課して、査定しようとしてもいるわけですけれども、決して「意地悪」な感じはしなかった。

別に僕を査定しても先方にはいいことなんか何もないわけです。うまくいったら仕事をゲットできる。うまくゆかなかったら、それは自己責任、というドライでクールな「試験」でしたけれども、間違いなくその「おじさん」たちは僕らにチャンスを与えてくれた。

でも、いま同じような状況に立たされたら、若い人たちはかなり怯えるんじゃないかと思います。たぶんほとんどの場合、そういう状況設定をする人は「チャンスを与える」ことよりも「屈辱感を味わわせる」ことを優先するから。

どうしてなんでしょうね。若い人にどれくらい社会的能力があるのかを「査定」するということはいつの時代だってやってきたはずですけれども、「査定」の目的がいつの間にか「チャンスを与える」ことではなく、「屈辱感を与えること」になってきている。

日本人は「意地悪」になってしまった

たまに政治家の記者会見を見ている時にそのことを強く感じます。若い記者たちが的外れな質問をした時に老練な政治家であればそれを「適切な問い」のかたちになるように教えてあげたっていいと思うんです。「あなたが訊きたいのはこういうことでしょう?」と言い換えてあげたっていいじゃないですか。それで記者が成長するなら、日本の政治文化もそれだけ豊かで厚みのあるものになるわけですから。

内田樹『勇気論』(光文社)
内田樹『勇気論』(光文社)

でも、いまはまるで違いますよね。記者に対して「お前がどれほど無能であるかを思い知らせてやる」と攻撃的になる政治家ばかりです。わずかな誤りの揚げ足をとったり、逆に記者が知るはずもないトリビアな質問をして、記者が絶句すると、「こんなことも知らない人間に、このトピックを語る資格はない」というふうに追い込んでゆく。そういう「意地悪」が作法として定着した。そういうふうにして記者に屈辱感を与えて、黙らせることのできる政治家が「強い政治家」だと評価されている。

この作法が蔓延しているのは政治の世界だけじゃないと思います。あらゆる組織で、企業でも学校でもメディアでも、たぶん同じことが行われている。どうして「こんなこと」になってしまったのでしょう。若い人たちに勇気がないと責める前に、若い人たちに「非力なんだから屈辱感を味わって当然だ」という「意地悪」な態度を向けるこの社会の力のある人たちのマナーが問題なんだと僕は思います。

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