道長が紫式部に対して好意をもっていたからではない
『本朝文粋』には、「去年(長徳2年)正月の除目」について、「参河守藤原挙直、越前守同為時、各所望の国に任ず」と記されている。つまり、為時は最初から申文には、越前守を希望する旨を明記していたことになる。
為時はこの10年、仕事がなにもなかったわけではない。宮中の儀式に参列し、詔書等を収めるといった記録はあるが、それだけで満足していたはずはない。国守として任地に赴きたいと思っていたのだろう。
とはいえ、10年も任官がなかった為時が、いきなり大国の国守への就任を希望するというのは、かなりの高望みだったと思われるが、それが叶ったのである。
おそらく「光る君へ」では、道長がまひろに対して抱き続ける特別な思いが、為時の任官になんらかの影響がおよぼしたように描かれるのではないだろうか。それに関しては、長徳2年(996)の時点で、道長と紫式部のあいだに面識があったかどうかもふくめ、断定できる話はない。
だが、ともかく、為時の漢詩の能力が評価され、その結果として、道長の判断によって希望どおりの越前守に任命されたことになる。つまり、道長の時代になったからこそ、為時が大抜擢される余地が生まれ、その家に光明が差した、ということはまちがいなく、為時も紫式部も、道長に大きな恩義を感じたことだろう。
『源氏物語』に反映させた道長への感謝
この年の秋、為時は越前に赴任した。50歳を超えていたと思われる為時が、妻を伴わずに遠国まで赴くのだから、当面の世話をする人間が必要だった。おそらく、そうした事情から紫式部も越前まで同行した。越前の国府は、いまの越前市(旧武生市)の国府のあたりにあった。
紫式部はその後、1年ほど越前に滞在する。倉本氏は「もしかしたら為時が漢文のできる自慢の女(むすめ)も宋人との交渉に使いたかったのかもしれないが」と書く(前掲書)。そんなねらいもあったのかもしれない。
『源氏物語』の「少女」巻には、光源氏が不遇の学者を抜擢した話が記されている。これは紫式部、そして父の為時の積年の願いと、それが叶っての感謝の念が記されたものではないだろうか。