突然「下国」→「大国」に変更
このときの人事の記録である「大間書」が残っていて、そこには越前守に「従四位上源朝臣国盛」、淡路守に「従五位下藤原朝臣為時」と書かれている。
諸国の長官である国守になるためには、一般には、少なくとも従五位より上位である必要があった。為時はずっと六位だったが、正月6日に行われた叙位で、従五位下に叙爵(貴族の爵位に叙せられること)されていたと考えられる。
ただし、日本国内の諸国は、その数が時代によっても異なるが、当時は68カ国ほどあり、国力によって「大国」「上国」「中国」「下国」に分かれていた。越前国は当時、13カ国あった「大国」のひとつで、生産力が高く、京都からも近いので、国守になることを希望する人が多かったのに対し、為時の赴任先とされた淡路国は「下国」だった。
倉本一宏氏は「受領の任官は申文を提出して、そのなかから選ばれるが、十年間も無官で五位に叙されたばかりの為時としては、下国の淡路守くらいが適当だと判断したのであろうか」と書く(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。
事実、「下国」の場合、従六位下でも国守になる場合があった。すでに従五位下になっていた為時にとっては、淡路守への任命は、降格とさえいえる人事だったのである。
ところが、除目の3日後の1月28日、大きな変化があった。『日本略紀』には「右大臣(道長)参内、俄停越前守国盛、以淡路守為時任之」と書かれている。すなわち、道長の主導で、源国盛を越前守にする人事は急遽停止され、代わりに為時が任命されたという。赴任先が「下国」から一転、指折りの大国に変更になったのである。
漢詩文の能力が奏功した
為時の越前守任官については、『今昔物語集』や『今鏡』などに、説話が載せられている。それらは概ね同じ内容で、『今鏡』に記されている内容を簡単に紹介すると、ざっと次のようになる。
除目で下国の淡路守に任じられた為時は、嘆いて以下の詩を書いた。「苦学の寒夜 紅涙襟をうるほす 除目の後朝 蒼天眼に在り(厳しく寒い夜も学問にはげみ、血の涙で襟を濡らしてきたが、除目の結果を知った翌朝、目には青空が映るだけだ)」。その詩を天皇に見てもらいたくて女房に託すと、一条天皇はすばらしさに感涙し、食事も摂らないほどだった。それを聞き知った道長は、為時を越前守にした――。
むろん説話の内容であり、そのまま史実とはいえないが、為時の漢詩の力が任官につながったことを示唆している。伊井春樹氏は「為時は文才によって越前守を射止めたことになり、学問の重要さがあらためて確認される」と記す(『紫式部の実像』朝日選書)。
また、前出の倉本氏は次のように書く。「この除目の直物(除目の訂正)において二人の任国が交換されたのは史実であるが、実際にはこのような事情で国替えがおこなわれたわけではなく、前年九月に来著して交易を求めていた朱仁聡・林庭幹ら宗国人七十余人(『権記』『日本略紀』)との折衝にあたらせるために、漢詩文に堪能な為時を越前守に任じたものとされる」(前掲書)。
やはり決め手は漢詩文だったことになる。