築山殿が死んだ年、側室になった阿茶局は正室並みの待遇だったのでは
子を産まなかったけれども、家康は阿茶局を重んじます。
天正17年(1589)に西郷局が亡くなると、遺された秀忠と忠吉を育てたのは阿茶でした。
天正18年(1590)の小田原の北条攻めのさいに秀吉は武将たちに妻や側室をともなわせますが、秀吉が茶々(淀殿)を連れてきたこの陣に、家康は阿茶を連れていくのです。たぶんそうした陣屋では女たちの集まり、それこそママ友の付き合いみたいな社交の場があったように思うのです。そういうところで秀吉はおそらく大名たちの裏情報というか、そういったことを女性の口から集めていたのではないでしょうか。そんな場でうまく立ち回れる女性が必要であったろうし、家康はそれを阿茶局に期待したのだと思います。
だから阿茶も頭のいい人だったのでしょう。社交性もある彼女は、家康にとって「最も使える女性」、信頼できる秘書役でした。阿茶はまた、慶長19年(1614)の大坂冬の陣の停戦交渉にも出て、豊臣方の常高院(淀殿の妹)や大蔵卿局(淀殿の乳母)を相手に和議成立にもっていきました。さらに家康の死後の話ですが、元和6年(1620)に母親代わりとして育てた徳川秀忠の、その5女・和子が後水尾天皇の皇后(中宮)として入内するさいにも母親代わりの守役をこなしています。大活躍です。
阿茶局、春日局など「仕事のできる女」を好んだ家康
日本人のなかで再婚することが、あまり評価されない時代がありました。特に日清日露の戦争から太平洋戦争の頃は、夫が出征するときに、自分の奥さんが後家を守るということを信じないと、戦争に行きにくい。だから「二夫にまみえず」という考え方が、意図的に広められたように思います。
2011年のNHK大河ドラマは「江~姫たちの戦国~」でしたが、主人公のお江(淀殿と常高院の妹)は、三度目の結婚で徳川秀忠の妻になりました。ようやく歴史ドラマでも、再婚が受け入れられるような時代になったのだなと、私はあのドラマを観て感じ入りました。
阿茶局は、家康から政治や外交も任され、あるいは生涯をかける仕事のパートナーとして、現代の働く女性のように、やりがいを感じていたのではと思います。
家康が――これは側室ではなく孫の家光の乳母としてですが――やはり信頼できる「使える女性」として雇い入れた春日局なども、家康の女性観を端的に表していますね。
「使える女性」を見分けられるし、その「使える女性」の使い方もよく心得ていた。それが家康という人だったと思います。