すばやい住民の行動

下市之瀬の町内会長、西戸人志さん(71)も津波が来ると直感して、すぐに県道を高台へ逃げた。

「下市之瀬の住民の多くは、逃げ足が早かったようです。経験したことのないような揺れでしたし、直後に津波警報などの町内放送がありました。まだ明るかったので、すぐに行動が起こせた面もありました」と語る。

能登町で最も酷い津波被害に遭ったのは、下市之瀬から5kmほど先にある白丸地区だ。

4mを超える津波が押し寄せて、建物が流出したり、1階が突き破られたりした。白丸には三つの町内会があり、そのうちの一つでは津波による犠牲者が出た。ただ、多くの住民の行動は下市之瀬と同じく早かった。

澗口(まぐち)澄夫さん(72)は1回目の揺れで外に飛び出した。

「ドーンと物が落ちるような揺れでした。慌てて外に飛び出したら、激しい横揺れが始まりました。なかなか収まりません。立っていられずに、思わず庭の石につかまりました。家は右に左に大きく揺れて、いつ潰れてもおかしくありませんでした」。思い出すだに背筋が凍る。

一刻を争う日本海の津波

自宅は海から県道を挟んで、すぐの場所にある。揺れの激しさに「津波が来る」と確信し、貴重品だけ持ち出して、高台へ急いだ。

集落には高台へ向かう小道が何本もある。それぞれ「ひなん」という看板が立てられていた。「逃げるぞ」と声を掛け合い、高齢者を助け合いながら、坂を上がった。

避難を呼びかけて各戸を回るようなことはしなかった。日本海の津波は来襲が早く、そのような時間がないことは、集落の避難訓練の時に住民同士で話し合っていたからだ。「5分で来襲するかもしれない」と指摘する人もいた。

実際に猶予はなかった。

「津波が岸壁を越える前なのですが、海水がガーッと沖へ引いていくのが見えました。地震の発生から20分ぐらい後のことでした」と澗口さんは話す。

その後、間もなく集落は呑み込まれた。

一刻を争って避難しなければならない日本海側の津波。これをイカキングの現場に当てはめて考えると、かなりリスクが高かったことがうかがえる。