「でもネパール人は奥さんも働く。みんなで商売をする」

「家族滞在」の制度は以前からあったのだが、コックの独立開業ブームとともに利用する人が増えていったようだ。「マンダラ」のサキヤさんが言う。

「インド人は男性が稼いで女性を養う。でもネパール人は奥さんも、家族で働く。みんなで商売をする。インド人は男ひとりだから、日本でビジネスが広がらなかったんじゃないかな」

サキヤさんのところからは、10人か20人くらいが独立していったという。留学生のアルバイトもいたし、正社員のコックもいたそうだ。「ラージャ」のカトリさんのもとからもおおぜいのコックが独立した。「クマリ」のキランさんは「うちのコックだった人、20人以上は店を持ったかな」と話す。

カドゥカさんは2008年に「家帝」をオープンしたが、最盛期にはなんと29店舗を抱えるまでになっていたという。「ちょっと利益が出ると次々に店を出してね。だからスタッフの教育が行き届かないこともあったよね」なんて反省もあるようだが、これらの系列店からは「50人以上は独立したと思う」と話す。そして、親から巣立った「子」から「孫」が生まれ、さらに店が増えていく。それぞれが家族を呼びよせ、ともにカレー屋を営む。こうして「インネパ」を営むネパール人が日本には爆発的に増えていった。

そして“コピペ”のごとく急増していった

「500万円出資制度」によってたくさんのコックとその家族がこの国で活路を見出し、故郷に錦を飾れるような成功者を生み出していったが、同時にもうひとつの流れも生み出した。

「家族親族で500万円をひねり出して日本のカレービジネスにトライする」ことが、いつのまにやら「経営・管理ビザを取得したい人間が500万円をネパールにいる出稼ぎ志願者数人に分割・負担させて日本に呼ぶ。一方はカレー屋経営者に、一方は技能ビザを取得してコックとしてカレー屋で働く」という図式に置き換わっていったのだ。つまりは日本側の独立志願者と、ネパール側の出稼ぎ志願者をつなぐブローカーが介在するようになる。

そして大量のカレー屋が生み出される中で、同じような店がコピペのごとく急増していったのは周知の通りだ。80〜90年代はムグライ料理という根をもとにインド人と日本人、そして日本人と組んだネパール人がインド料理の枝葉を広げてきたが、2000年代に入り急増したネパール人経営者は、既存店の模倣をビジネスポリシーとした。彼らを生み出した「親」である古株の商売人たちは、口をそろえて苦笑する。

「みんな、うちの店と同じメニューでやってるみたいだね」

ナン
写真=iStock.com/Ibuki
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