なぜ超マイナーな人物を取り扱うのか

すると当然、生徒たちは「また植木枝盛?」となります。それなのになぜ、先生は多くの時間を割いて植木枝盛の授業をしたのか?

植木枝盛という個性的な思想家・政治家の活動を通じて、その時代の社会構造や取り巻く環境が何となく理解できるようになるから、ということでしょう。

倫理・社会に限らず、教科書に出てきた人物を丸暗記するのでは、その人物が何をやっていたのか、その時代にどのような役割を担っていたのかといったことがわかりません。それでは知識の深みにたどり着けるどころか、現代と比較して当時の社会がどのような状況にあったのかなどということを想像すらできません。

植木枝盛の時代に民主主義が徐々に抑圧されていき、続いて軍国主義が台頭して、やがて戦争に突入していった。そういう時代の流れを知るためには、重要な役割を担った人にフォーカスして、史実と関連づけて学んでいくと理解しやすくなるのです。

その先生は、自身の好みで人物選択をして授業をしていたのですが、いま思えばそれこそが完全な深掘りと融合のハイブリッド学習になっていたのです。

倫理の授業なのに科学を学べる

ほかにも、その先生が深掘りした題材に足尾鉱毒事件がありました。足尾鉱毒事件とは、明治時代に栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本初の公害事件です。

足尾銅山は、明治時代に国内一の産出量を誇る銅山でしたが、その一方で開発による排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、流域の水産物や農作物にも大きな被害を与えていました。

田中正造の肖像(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
田中正造の肖像(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

こうした状況に対して、周辺住民の抗議運動が高まります。この抗議運動の中心には、地元の政治家・田中正造がいました。田中正造は、この問題を国会で取り上げ、さらに各地で演説を行っては、国民の関心を足尾鉱毒事件に向けようとしました。

田中正造の活動が実り、政府は調査委員会を組織して鉱毒防止令を制定しましたが、その後も鉱毒被害の科学的調査は進まないまま、1973年、足尾銅山は閉山したのです。その先生は、この事件について延々と授業を続けました。

いうまでもなく、こうした深掘り型の授業が倫理・社会という科目の垣根を越えて、現代社会における科学の発展と環境の問題に通じているわけです。